一片の石(会津八一)のあらすじ・登場人物
石に永遠を託した人々の願い
- 文字数
- 2,961字
- 読了目安
- 約6分
- 表記
- 新字旧仮名
- 種別
- 随筆
この作品について
歌人・書家として知られ、東洋美術史家でもあった會津八一の随筆。人は城壁や神像、墓や石碑と、朽ちぬ石に思いを刻んで永遠を願ってきた。だが石は千年の風霜にもろく、作られた数の千に一つも残らない。著者は、中国・晋の名臣羊祜(ようこ)をしのんで人々が立て、見る者を涙させたので「堕涙(だるい)の碑」と呼ばれた石碑の運命を軸に、この主題を語る。その碑さえ幾度も倒れ砕けては彫り直され、いまはない——。石よりも、かえって書物や文字のほうが永く人の名を伝えるという、奈良の古美術に親しんだ著者ならではの静かな省察。
あらすじ
人間は古来、城壁・神像・墓・石碑と、朽ちぬ石に思いを刻んで永遠を願ってきた。だが石は千年の風霜に耐えられず、火や人の手で失われ、作られた数の千に一つも残らない。著者はここで中国・晋の名臣、羊祜(ようこ)の逸話を引く。山水を愛した羊祜は、昔の偉人たちが皆忘れ去られた事実を思ってわが身の後をはかなんだが、その死後、徳を慕う人々が山上に碑を立て、見る者は涙して「堕涙の碑」と呼んだ。同じ頃の杜預(どよ)は身後の名声を気にして同じ碑を二基作らせ、一つを山上に、一つを淵の底に沈めて万一に備えた。のちに唐の孟浩然や李白がこの碑を詩に詠んだが、その碑は羊祜の没後わずか二百七十二年で破損して彫り直され、それさえ再び剥落して苔むしていた。碑は三代目まで滅び、いまはない。それでも羊祜の名は「文選」や史書の伝わるかぎり残り、杜預の著書「左氏経伝集解」は今も若い学生に読まれている。石は案外もろく、その寿命はかえって紙と墨に及ばない。人はもっと確かなものに拠らねばならない——著者はそう筆を収める。
冒頭部(原文より)
人間が石にたよるやうになつて、もうよほど久しいことであるのに、まだ根気よくそれをやつてゐる。石にたより、石に縋り、石を崇め、石を拝む。この心から城壁も、祭壇も、神像も、殿堂も、石で作られた。いつまでもこの世に留めたいと思ふ物を作るために、東洋でも、西洋でも、あるひは何処の極でも、昔から人間が努めてゐる姿は目ざましい。人は死ぬ。そのまま地びたに棄てておいても、膿血や腐肉が流れつくした後に、骨だけは石に似て永く遺るべき素質であるのに、遺族友人と称へるものが集つて、火を点けて焼く。せつかくの骨までが粉々に砕けてしまふ。それを拾ひ集めて、底深く地中に埋めて、その上にいかつい四角な石を立てる。御参りをするといへば、まるでそれが故人であるやうに、その石を拝む。そして、その石が大きいほど貞女孝子と褒められる。貧乏ものは、こんな点でも孝行がむづかしい。
「一片の石」会津八一(青空文庫)
末尾部(原文より)
羊は身後の名を気にしてゐたものの、自分のために人が立ててくれた石碑が、三代目さへ亡び果てた今日に至つても、「文選」や「晋書」や「隋書経籍志」のあらむかぎり、いつの世までも、何処かに彼の名を知る人は絶えぬことであらう。彼の魂魄は、もうこれに気づいてゐることであらう。またその友人、杜預が企画した石碑は、二基ともに亡びて、いまにして行くところを知るよしもないが、彼の著述として、やや得意のものであつたらしい「左氏経伝集解」は、今も尚ほ世に行はれて、往々日本の若い学生の手にもそれを見ることがある。だから、大昔から、人間の深い期待にもかかはらず、石は案外脆いもので寿命はかへつて紙墨にも及ばないから、人間はもつと確かなものに憑らなければならぬ、と云ふことが出来やう。杜預の魂魄も、かなり大きな見込み違ひをして、たぶん初めはどぎまぎしたものの、そこを通り越して、今ではもう安心を得てゐるのであらう。
「一片の石」会津八一(青空文庫)
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