内藤湖南の生涯と代表作
東洋史を切り開く
- 生没
- 1866–1934
- 出身
- 秋田県
- Wikipedia
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略歴
1866年(慶応2年)、陸奥国毛馬内(現在の秋田県鹿角市)に南部藩士の次男として生まれる。本名は虎次郎。秋田師範学校を卒業して小学校の教師となったが、上京して雑誌記者・新聞記者となり、大阪朝日新聞や『万朝報』で論説を書いて、中国問題の論客として知られた。1907年、学歴を問わず京都帝国大学に招かれて東洋史の講座を担当し、のちに教授となる。中国史の時代区分について、唐と宋の間に大きな社会の変化があったとする「唐宋変革論」を唱え、京都学派の東洋史学の基礎を築いた。日本文化史の研究でも知られる。退官後は京都府南部の瓶原村に恭仁山荘を構えて晴耕雨読の日を送り、1934年(昭和9年)、67歳で死去。
収録作品
- 応仁の乱に就て 1921年(大正10年)8月