哲学入門(三木清)のあらすじ・登場人物
哲学に入る門は到る処にある
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- 110,573字
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- 約3時間41分
- 表記
- 新字新仮名
この作品について
「哲学に入る門は到る処にある」——三木清が説き起こす、哲学概論ではない哲学入門。学説の分類でも自説の要約でもなく、我々が日々接触する現実を正しく見ることを教えるものでなければ、どんなに深遠に見える哲学も空語に等しいという立場から書かれている。西田哲学を背景に置きつつ、経験・言語・行為・技術・人間関係へと歩を進め、最後は「心情の倫理」ではなく「責任の倫理」を説いて閉じられる。
あらすじ
哲学に入る門は到る処にあり、諸君はそれぞれの状況に従ってめいめいその門を見出すことができる。ここに示されたのはその多くの門の一つに過ぎない——序はそう書き出される。哲学入門は哲学概論ではない。哲学史上の諸説を分類し系統立てることでも、自己の体系を要約することでもない。しかし哲学は究極の原理に関する学として統一のあるものでなければならず、この入門書にも或る統一がある。ここで予想されているのは、著者の理解する限りの西田哲学である。すべての学は真理に対する愛に発し、真理に基く勇気を喚び起すものでなければならない——本書で特に明らかにされるのは、真理の行為的意味である。……本論では、我々が現実のうちに置かれているという事実から出発して、経験とは何か、知識はいかにして成立するか、言葉と論理は何をしているのか、そして人間の行為と技術と社会的関係が、どのような仕方で「真理」に結びつくのかが順に問われてゆく。三木は繰り返し、哲学が生活から切り離された観照ではなく、現実を正しく見るための道であることを強調する。結びに置かれるのは責任の問題である。行為は意識の外部に出るものである以上、つねに社会的に結果を生ずる。動機さえ善ければ行為は善だと考える動機説は、主観主義・個人主義であって誤謬である。倫理は「心情の倫理」に止まらず「責任の倫理」でなければならない。ただしそれは結果さえ善ければよいという結果説であってもならない——我々は知識によって行為の社会的結果をできるだけ予見して行為しなければならない、と三木は説く。
冒頭部(原文より)
序 哲学に入る門は到る処にある。諸君は、諸君が現実におかれている状況に従って、めいめいその門を見出すことができるであろう。ここに示されたのは哲学に入る多くの門の一つに過ぎぬ。しかし諸君がいかなる門から入るにしても、もし諸君が哲学について未知であるなら、諸君には案内が必要であろう。この書はその一つの案内であろうとするものである。
「哲学入門」三木清(青空文庫)
末尾部(原文より)
責任の倫理は自己の行為の結果に対して責任を負うことである故に、それは知識を欠くことができないのである。我々は知識によって我々の行為の社会的結果をできるだけ予見して行為しなければならぬ。責任の倫理は行為の結果を重んずるのであるが、それは単に結果さえ善ければ行為は善いと考えるいわゆる結果説であってはならぬ。
「哲学入門」三木清(青空文庫)
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