『人形の家』解説(島村抱月)のあらすじ・登場人物
ノラはなぜ家を出たか
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- 16,858字
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- 約34分
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- 旧字旧仮名
この作品について
大正2年(1913年)、島村抱月が自身の訳したイプセン『人形の家』に添えた解説。イプセンの全著作目録から説き起こし、婦人問題劇としての反響、通俗趣味に強要されて書かされた「めでたい結末」の改作とそれを呪ったイプセンの手紙、公表された草稿と完成本の比較、そして世界各国での上演史までを丹念にたどる。末尾では明治44年に文芸協会が帝国劇場で全三幕を上演し、松井須磨子がノラを演じたことを記す——日本の新劇の出発点を、当事者自身が書き残した記録でもある。
あらすじ
抱月はまずイプセンの生涯と全著作目録を掲げ、現代の社会を描いた劇において彼が近代劇の父となり王となったことを確認する。『人形の家』といえば誰でもすぐ婦人問題を思い出すが、問題を芸術にするのが善いか悪いかという論争は無用だ、と抱月は言う。劇が芸術としての目的は我々の生命を衝き動かすところにあり、その方法や材料が社会問題であるか否かは問うところではない。ゴッスの『イブセン伝』を引いて、最終幕でノラが寝室から立ち出でヘルマーと見物とを驚倒させる場面が「劇壇に新しきもの生れたり」という感を起こさせたこと、ノラの独立宣言が全スカンジナビアに響き渡り、人々が毎夜興奮して顔蒼ざめ議論をしながら劇場を出たことを伝える。もっとも、問題や思想の奥から放射しているものがなければ、一場の煽動演説と何の区別もない。芸術の奥から放射しているのは生命の光りであり熱である、と抱月は説く。イプセン自身がノルウェー女権同盟の祝賀会で「私の仕事は『人間の描写』ということでありました」と述べ、女権運動のために働いた者としての名誉を辞退した演説も引かれる。続いて抱月は、この劇の着想が十年前の『青年同盟』のゼルマの台詞にすでに現れていたこと、ヴィリエ・ド・リラダンの『謀叛』との類似は暗合と見るのが至当であることを論じ、さらに通俗趣味に強要されてイプセン自らが書いた改作——ノラが子供部屋の戸口でくずおれ、ヘルマーが「ノラ!」と喜ぶ結末——の全文を訳載する。イプセンはこれを「この劇に対する野蛮なる暴行」として呪い、劇場監督者や新聞に宛てて事情を釈明する手紙を書いた。抱月はさらに、公表された草稿と完成本を比較する。「精神上の法則に二種ある、二種の良心である、一は男子に、他の全く異なつた一は女子に」という着想の覚書。タランテラ踊はまだ影も形もなく、ノラが別室へ入るとき「人形の衣裳をぬぐのですよ」という象徴的な台詞も、「それを何百万といふ女は犠牲に供してゐます」という女子の公憤の叫びも、草案にはまだない。最後に上演史が世界地図のようにたどられる。1879年コペンハーゲン皇室座の初演から、ドイツ、ウィーン、ロシア、パリ、イギリス、アメリカへ。そして日本では明治44年、文芸協会が帝国劇場で全三幕を上場し、ノラを松井須磨子が演じた。「これが我が国における『人形の家』の最初の興行であるとともに、広く近代劇としても、在来の女形と称する男優を用ひず、女優を主として成功した真面目な劇の最初である」——抱月はそう記して、この長い解説を閉じる。
冒頭部(原文より)
『人形の家』の作者ヘンリック・イブセン(Henrik Ibsen)は西暦千八百二十八年三月二十日、ノールウェーのスキーンといふ小都會に生まれ、千九百六年五月二十三日、七十九歳で同國の首府クリスチアニアに死んだ。彼れの生涯中三十七歳から六十三歳まで、人生の最盛期二十七年間は、本國に意を得ないでドイツ、イタリア等に漂泊の生活を送り、『ブランド』以下『ヘッダ・ガブレル』に至る十餘篇の劇をそのあひだに作つた。
「『人形の家』解説」島村抱月(青空文庫)
末尾部(原文より)
これが我が國における『人形の家』の最初の興行であるとともに、廣く近代劇としても、在來の女形と稱する男優を用ひず、女優を主として成功した眞面目な劇の最初である。 同じ一座は、翌明治四十五年三月十四日から一週間、大阪中座で同じく『人形の家』を開演し、これまた好成績であつた。 『人形の家』の歴史は大體以上のやうなものである。 大正二年三月 抱月生
「『人形の家』解説」島村抱月(青空文庫)
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