善の研究(西田幾多郎)のあらすじ・登場人物
純粋経験から説く哲学書
- 文字数
- 123,698字
- 読了目安
- 約4時間7分
- 表記
- 新字新仮名
この作品について
西田幾多郎の最初の著作で、1911年(明治44)2月に弘道館から刊行された。もとは『純粋経験と実在』の題で構想されていたが、出版社の意向で改題されたという。全体は純粋経験、実在、善、宗教の四編からなる。主客が分かれる以前の直接の経験を出発点に据え、禅の体験とウィリアム・ジェームズの思想が源流とされる。日本の哲学者が独自の体系を打ち出した書として読み継がれている。
あらすじ
全四編から成る。第一編「純粋経験」で、西田は、色を見、音を聞くその刹那の、まだ主も客もなく、知るものと知られるものとが合一した「純粋経験」こそが唯一の実在であると説く。第二編「実在」では、この純粋経験を基礎として、精神と物体、自然と神を含む一切の実在を統一的に把握しようとする。第三編「善」では、意志と行為の問題を論じ、自己の内なる真の要求を実現し、人格を完成させることに善の本質を見いだす。そして第四編「宗教」では、有限な自己が無限なる神と合一する境地に、哲学の終結としての宗教を位置づける。巻末に添えられた「知と愛」では、知ることと愛することはともに主客合一の作用であり、我が物に一致する働きにほかならないとして、無私となるほど愛は深く大きくなり、ついには禽獣草木にまで及ぶと結ばれる。
冒頭部(原文より)
経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。
「善の研究」西田幾多郎(青空文庫)
末尾部(原文より)
我々が自己の私を棄てて純客観的即ち無私となればなる程愛は大きくなり深くなる。親子夫妻の愛より朋友の愛に進み、朋友の愛より人類の愛にすすむ。仏陀の愛は禽獣草木にまでも及んだのである。
「善の研究」西田幾多郎(青空文庫)
名文
純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たいというのは、余が大分前から有っていた考であった。
序文の一節。主観と客観が分かれる以前の直接の経験「純粋経験」を唯一の実在とする構想を述べ、日本で最初の独創的な哲学書といわれる本書の出発点を示す。
原文を読む
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