永井荷風の名文
永井荷風の作品から、よく知られた一節を集めました。
6件
日和下駄
人並はずれて丈が高い上にわたしはいつも日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く。いかに好く晴れた日でも日和下駄に蝙蝠傘でなければ安心がならぬ。これは年中湿気の多い東京の天気に対して全然信用を置かぬからである。
永井荷風『日和下駄』(1915年刊)の本文の書き出し。晴れた日にも下駄と傘で歩くのは東京の天気を信用しないからだと、とぼけた調子で始める。消えゆく江戸の名残をたずねる東京散策記の、荷風らしい導入。
断腸亭日乗
九月十六日、秋雨連日さながら梅雨の如し。夜壁上の書幅を挂け替ふ。
永井荷風『断腸亭日乗』大正六年の巻の書き出し。秋雨の続く日に壁の掛軸を替える、という簡潔な文語の記述から日記が始まる。
正月元日。例によつて為す事もなし。午の頃家の内暖くなるを待ちそこら取片づけ塵を掃ふ。
永井荷風『断腸亭日乗』大正七年の元日の記述。何をするでもなく過ごす、荷風の日常の淡い筆致が分かる。
正月元旦。間適の余生暦日なきこと山中に在るが如し。
大正九年の元旦の記述。山中に暮らすように暦も忘れた閑適の余生と記し、年賀に行く先もない荷風の孤独な暮らしぶりを語る。
余この夜故なきに憂愁禁じがたし。王次回が排愁剰有聴歌処。到得聴歌又涙零。の一詩を低唱して、三更家に帰る。風雨一過、星斗森然たり。
永井荷風『断腸亭日乗』大正八年(1919年)の一節。芸者たちの座敷でわけもなく憂いにとらわれ、明末の詩人王次回の詩を口ずさんで帰る。雨風の去った後の星空で結ぶ、荷風の孤独を映す漢文調の一節。
濹東綺譚
わたくしは殆ど活動写真を見に行ったことがない。
映画嫌いを述べる何気ない一行から筆を起こす書き出し。玉の井の女お雪との、雨の季節だけの交わりが淡々と語られていく。