尾崎紅葉の名文
尾崎紅葉の作品から、よく知られた一節を集めました。
6件
心の闇
言はずして思ひ、疑ひて懼る。是も恋か、心の闇。
尾崎紅葉『心の闇』の結び。胸の思いを口に出さずに抱き続ける佐の市と、不思議な夢から彼を疑って怖れるお久米。二人の胸のうちを短い対句で並べ、題の「心の闇」で閉じる。恋に迷う心と、光を知らない佐の市の闇とが、最後の一語に重なる。
多情多恨
鷲見柳之助は其妻を亡つてはや二七日になる。
冒頭の一文。妻を亡くして十四日たった男の悲しみから、長編『多情多恨』は始まる。
抑も家内に人一個殖ゑるといふは、思の外面倒なもの。それが、奉公人でもなく、厄介でもなく、泊客でもなければ、万更預りものでもない、同居と謂へば謂ふやうなものゝ、尋常の同居とは少し理が違ふ。
後編の冒頭近く、柳之助を家に迎えた葉山の妻お種の側から語る一節。どう扱えばよいか分からない客を抱えた主婦の戸惑いが、軽妙な列挙で描かれる。
如何にも其軀は葬られて、其形は滅したに疑ひは無いが、彼の胸の内には、その可愛い可愛い妻の類子は顕然と生きてゐるのである。
冒頭の段落の結び。妻の死を頭では受け入れながら、胸の内では生きているとしか思えない柳之助の心を、紅葉は細やかに描く。
一も妻、二も妻、三も四も五も類で無くては、柳之助の夜は明けなかつた。
亡き妻お類への柳之助の傾倒ぶりを述べた一文。数え上げの調子が、人付き合いの苦手な男の一途さを可笑しくも哀しく伝える。
金色夜叉
可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ
熱海の海岸で許婚の宮に捨てられた貫一が、朧月を仰いで言い放つ別れの言葉。新派の芝居や流行歌を通じて広まり、近代文学屈指の名台詞となった。