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「私」小説と「心境」小説(久米正雄)のあらすじ・登場人物

小説のふるさとは私にある

久米正雄 1925年(大正14年)1月 「文藝講座」

文字数
8,218字
読了目安
約16分
表記
新字旧仮名

この作品について

大正14年(1925年)、久米正雄が「文藝講座」に二回に分けて発表した評論。日本の私小説論の出発点に置かれる一篇である。私小説こそ散文芸術の本道であり真髄だと言い切り、『戦争と平和』も『罪と罰』も『ボヴァリー夫人』も「偉大なる通俗小説に過ぎない」と断じる大胆な主張で文壇に反響を巻き起こした。同時に、私小説が単なる告白に堕さないために必要なものとして、自ら命名した「心境」——腰の据わり——を説く。日本文学の特異な形をめぐる議論は、この一文から始まった。

あらすじ

当時の文壇では心境小説と本格小説、私小説と三人称小説の是非が両々相譲らず論議されていた。「心境小説」は久米自身が仮に命名したもので、対象を如実に浮かばせるよりも、それを眺めるときの「心持」を主として表そうとした小説を指す。久米はまず自分の「私小説」の定義から始める。それはドイツ語のイヒ・ロマーンの訳ではない。主人公が「私」と名乗るかどうかという形式の問題ではなく、作家が自分を最も直截にさらけ出した「自叙」小説のことである。ただし単なる自叙伝や告白ではなく、あくまで小説=芸術でなければならない。ルソーの懺悔録は私小説ではないが、ストリンドベリの『痴人の懺悔』は明らかに私小説である。漱石の『吾輩は猫である』は、猫という額縁を一と撚り撚っているために私小説には入れたくない——むしろ『硝子戸の中』が懐かしいが、残念なことにあれは小説ではなかった。菊池寛の「啓吉物」は三人称でありながら明らかに私小説の代表作であり、島崎藤村の「新生」、田山花袋の「残雪」、徳田秋声の「黴」、正宗白鳥や近松秋江、終始一貫している葛西善蔵——見渡せば日本の作家はみな私小説を書いている。なぜそれが本道なのか。久米は「芸術が別な人生の創造だとはどうしても信じられない」と言う。芸術はその人の踏んできた一人生の「再現」でしかない。他人に仮托した瞬間に一種の間接感と虚構感が伴い、読み物としては優っても信用が置けない。だから「私小説を除いた外のものは、凡て通俗小説である」。いかに立派な造花でも一茎の野花に如かない、と。第二回では誤解に答えつつ論を進める。自分は私小説を提唱・宣伝しているのでも規範を定めているのでもない。「つまらない人の生活を素直に記録しても、つまらないではないか」という非難には、つまらない人の生活を絢爛複雑に本格小説的に作ってもやはりつまらない、と返す。凡ゆる存在は尤もである。誰でもが表現力に恵まれているならば、一つ一つ私小説を書き残して死んでゆくのが本当なのだ。問題は「それを如実に表現し得れば」という条件にかかる。そして「如実に」とは素材そのままの謂ではない。そこには必ず一つのコンデンサーが要る——「私」を融和し、濾過し、集中し、渾然と再生させて誤りなき「心境」を要する。これが第二段の主張である。心境とは俗に言えば一個の「腰の据わり」であり、立脚地の確実さである。そこからならどこをどう見ようと常に間違いなく自分であり得る。この心境が加わることによって私小説は告白や懺悔と微妙な界線を画し、芸術の花冠を受ける。これなき私小説は人生の紙屑小説、糠味噌小説、単なる惚気や愚痴に過ぎない。「此の『私、心境小説』は、一時の作家の気紛れや、一時代の文学の傾向に、左右されるものではない、此処から出て行つて、遂には又此処へ帰る小説のふるさとである」——久米はそう結び、これから創作を志す者に、一人称三人称の問題に余計な苦労をせず安んじて私小説・心境小説に就くよう希望する。

冒頭部(原文より)

一  此頃文壇の一部に於て、心境小説と云ふものが唱道され、又それに対して、飽くまで本格小説を主張する人々が在つて、両々相譲らないと共に、それに附随して、私小説と云ふものと、三人称小説との是非が、屡々論議された。  心境小説と云ふのは、実はかく云ふ私が、仮りに命名したところのもので、其深い趣意に就ては、いづれ章を改めて述べるが、只茲に一言で云へば、作者が対象を描写する際に、其対象を如実に浮ばせるよりも、いや、如実に浮ばせてもいゝが、それと共に、平易に云へば其時の「心持」六ヶ敷しく云へばそれを眺むる人生観的感想を、主として表はさうとした小説である。

「「私」小説と「心境」小説」久米正雄(青空文庫)

末尾部(原文より)

 最後に更に繰り返して云ふ、此の「私、心境小説」は、一時の作家の気紛れや、一時代の文学の傾向に、左右されるものではない、此処から出て行つて、遂には又此処へ帰る小説のふるさとである。  だから、是から創作に志す程の諸君は、此の纏りのない一文でも、読み終つたならば尠くともその事だけは信じ、そして最早過去の作家達を悩ました一人称三人称問題なぞに、改めて余計な苦労をする事なく、安んじて「私小説」「心境小説」に就かれん事を希望する。

「「私」小説と「心境」小説」久米正雄(青空文庫)

名文

さう云ふ意味から、私は此頃或る講演会で、かう云ふ暴言をすら吐いた。トルストイの「戦争と平和」も、ドストイエフスキイの「罪と罰」もフローベルの「ボリイ夫人」も、高級は高級だが、結局、偉大なる通俗小説に過ぎないと。結局、作り物であり、読み物であると。

私小説こそ散文芸術の本道だと説いた久米正雄の評論の名高い一節。西欧の大作をも「偉大なる通俗小説」と言い切る大胆さが際立つ。

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原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。

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