久米正雄の生涯と代表作
心境小説の名づけ親
- 生没
- 1891–1952
- 出身
- 長野県
- 文学史
- 新思潮派
- Wikipedia
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略歴
1891年(明治24年)、長野県上田市生まれ。小学校長だった父が校舎の火災で御真影を焼失した責を負って自刃し、母の郷里である福島県郡山に移って育った。第一高等学校で菊池寛・松岡譲・芥川龍之介らと交わり、東京帝国大学英文科在学中に第三次・第四次「新思潮」を創刊。戯曲「牛乳屋の兄弟」で認められ、父の死を八歳の子供の眼から描いた「父の死」、受験に破れた青年の手記という形をとった「受験生の手記」で作家としての地位を築いた。夏目漱石の門下に入るが、長女筆子への恋が破れ、彼女が親友の松岡譲と結婚したことは生涯の傷となり、のちに「破船」などで小説化された。1918年(大正7年)に「時事新報」へ連載した「蛍草」の好評を機に通俗小説へ転じ、大衆の人気作家となる。評論「「私」小説と「心境」小説」では自ら「心境小説」を命名して私小説論の口火を切り、苦さの混じった笑いを表す「微苦笑」という言葉の造語者としても知られる。鎌倉に住んで文士たちの中心となり、芥川賞の選考委員を務め、戦後は鎌倉文庫の社長として出版にも携わった。1952年(昭和27年)、60歳で死去。俳人としては「三汀」の号で知られ、若いころからの俳句も創作の一つの柱だった。劇作・小説・評論・俳句・出版にまたがる活動を通じて、漱石門下と鎌倉の文学者たちをつなぐ役割を担った。
収録作品
- 父の死 1916年(大正5年)2月
- 手品師 1916年(大正5年)4月
- 受験生の手記 1918年(大正7年)
- 「私」小説と「心境」小説 1925年(大正14年)1月