手品師(久米正雄)のあらすじ・登場人物
あゝ職業、職業
- 社会
- 心理
- 文字数
- 7,402字
- 読了目安
- 約15分
- 表記
- 新字旧仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 東京都
この作品について
浅草公園の興行会社の事務所に、新帰朝の手品師が売り込みに現れる。兎と鳩を眠らせ、額でビール瓶を割り、自分の腕の上で大根を真っ二つに切ってみせる——その芸を眺めながら、食うために匿名で連鎖劇を書いている若い座付作者は、自分の職業について考え込む。第四次「新思潮」に発表された短編。作者と手品師、道が違うだけの二人の職業人が交わす短い会話に、この時期の久米正雄自身の焦りが映る。
あらすじ
浅草公園で興行物を経営する株式会社『月世界』の事務所。今年大学を出たばかりの若い座付作者は、単に食うことの必要上ここに入り、匿名で連鎖劇を書いている。あらゆる芸術上の操守を棄てて「作者道」に入ったのだ。自分の書いたものが観客の感情を唆り立てる愉快さに慣れるうち、厭で堪らなかった商売がだんだん面白くなってきて、ふと生涯の目的を忘れるようにすらなる——それと気がつくと彼は驚いて自分を叱る。この儘下らない作者に堕ちてしまうには、余りに惜しい芸術的素質が自分にはある筈だ。だが自分の創作が思うままにできる日はいつ来るだろう。その日までにこの商売が自分を毒してしまいはしないだろうか。人が何を措いても先ず食ってゆかねばならないとは何という悲惨なことだろう……そこへ受付から一枚の名刺が届く。『新帰朝手品師、ジャングル・ジャップ事、江本進一』。重役は「例によつて試験をしてやらう」と言い、事務所の中央に余地が作られる。手品師は上衣を脱ぎ棄て、快活に周囲を見廻す。「ぱつ! ぱつ!」と叫べば兎はころりと眠り、鳩は首をだらりと伸ばして横になる。桐の手函に入れられた巻尺を透視してみせ、案内女たちの笑いに元気づいて洒落を飛ばし、赤黒いビール瓶を「やつ!」と眉間に打ちつけて硝子片を飛び散らせ、逞ましい左腕の上に載せた白い大根を一刀で切断する。重役は満足し、看板になる肩書はないかと訊く。「前大統領ルーズベルト夫人台覧」——手品師は事もなげに言い放つ。給金の相談に応接間へ向かう彼を、作者は不意に呼びとめた。手品師といふ職業。彼はその心持を訊いてみたくなったのだ。初めは真っ当な仕事をするつもりで米国へ渡ったが、食えなくなって手品師の一行に入り、見様見真似でとうとう商売になってしまったのだと手品師は答える。大根切りには金箍をはめて六年も毎日やった。「それだけの熱心を他のものに注いだら、立派な出世ができるだらうになあ」と作者が言うと、手品師は言う。「それは時々私もさう思ひますんで。併し旦那、何しろ鳥渡面白うがすからな。一度この道へ踏み込んだら最後、二度と世間へは出られませんや」。楽隊の音が起こり、拍子木が響く。座では第一回の連鎖劇が始まるところだ。あゝ職業、職業。作者は手品師の去ったあとを眺めて立ちつくし、『二ちやう』と聞くと急いで薄暗い楽屋裏へ急いだ。
登場人物
- 若い座付作者 食うために匿名で連鎖劇を書く大学出
- 手品師(江本進一) 新帰朝の入神術使い。ジャングル・ジャップ
- 重役 株式会社『月世界』の専務取締役
- 受付の女(おひさ) 大根を買いに走らされる
冒頭部(原文より)
浅草公園で二三の興行物を経営してゐる株式会社『月世界』の事務所には、専務取締役の重役がいつもの通り午前十時十五分前に晴々しい顔をして出て来た。美しく霽れ上つた秋の朝で、窓から覗くと隣りのみかど座の前にはもう二十人近くの見物人が開館を待つてゐる。重役はずつとそれらを見渡して、満足さうに空を仰いだ。
「手品師」久米正雄(青空文庫)
末尾部(原文より)
「さうですよ。何しろ見物がわつと湧けあ、いつの歳になつても面白うがすからな。まあそいつを楽しみにしてやつてゐるんです。わつしだつて他に正直な商売があるもんなら、やりたいのは山々なんですよ。いやはや、これはお喋りをしました。御免……。」と云つて彼は応接間の方へ行つて了つた。 一としきり楽隊の音が騒々しく起る。するとそれを縫うて拍子木の音が響く。座の方では今第一回の連鎖劇が始まる処であらう。案内女たちも去つた。事務員たちも卓についた。併しこの若い作者だけはぢつと手品師の行つたあとを眺めて、黙想し乍ら立ちつくした。あゝ職業、職業。彼は先ず今日一日だけも此儘ゐなければならない。『二ちやう』と聞くと彼は急いで薄暗い楽屋裏へ急いだ。
「手品師」久米正雄(青空文庫)
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