カインの末裔(有島武郎)のあらすじ・登場人物
北の農場へ、一家の足取り
- 社会
- 心理
- 文字数
- 32,079字
- 読了目安
- 約1時間4分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 北海道
この作品について
1917年(大正6年)7月の『新小説』に発表された有島武郎の小説。舞台は、蝦夷富士と呼ばれる山の裾野に広がる北海道の農場である。広岡仁右衛門は痩せた馬を引き、赤子を背負う妻を伴って、晩秋の草原を歩いてくる。小作人として暮らすため、二人は松川農場の事務所を訪ねる。人前で身構え、妻にも乱暴な言葉を投げる仁右衛門の姿には、大きな身体と、他人への警戒とが同時に表れている。冷たい風、空腹、焚き火や食べ物の匂いなどを、強い身体感覚を伴う比喩で描く文章が特徴だ。草原の広さだけでなく、事務所の戸を開ける手つきや、帳場の男と向き合う間にも目を向ける。自然の中で生計を立てようとする一家を、土地を管理する仕組みや周囲の人々との関係の中に置き、働く身体と社会の秩序との緊張を描いた作品である。
あらすじ
痩せ馬を引き、赤ん坊を背負った妻を従えて、広岡仁右衛門は北海道の大草原に流れ着く。蝦夷富士を望む松川農場の一角に小作人として住みついた彼は、粗野で乱暴、法も情も意に介さぬ野性の男であった。厳しい自然を相手に開墾へ挑む一方で、賭博に手を染め、他の小作たちや農場の事務所と衝突を繰り返す。飼い馬を種馬に使おうと目論むが失敗し、頼みの馬にも死なれ、赤子まで失って、仁右衛門の暮らしは追い詰められていく。地主の支配する土地の秩序に、腕力と反抗だけで立ち向かおうとする彼は、ついにその土地に根を下ろすことができない。神に追われた最初の殺人者カインの末裔のごとく、定住の地を持たぬ放浪者として、仁右衛門はふたたび妻とともに農場を去り、暗い椴松の林の彼方へと呑み込まれていく。土地と制度に敗れながらも屈しない一人の男の姿を通して、有島は人間の原初的な生命力と、その孤独な宿命とを描き出した。
登場人物
- 広岡仁右衛門 北海道の農場に流れ着いた小作人。粗野で乱暴、法にも情にも縛られぬ野性の男
- 仁右衛門の妻 足を引きずり、赤子を背負って夫に従う。貧苦と夫の暴力に耐える
- 松川農場の人々 農場を管理する事務所や、周囲の小作人たち。仁右衛門と衝突を繰り返す
冒頭部(原文より)
長い影を地にひいて、痩馬の手綱を取りながら、彼れは黙りこくって歩いた。大きな汚い風呂敷包と一緒に、章魚のように頭ばかり大きい赤坊をおぶった彼れの妻は、少し跛脚をひきながら三、四間も離れてその跡からとぼとぼとついて行った。 北海道の冬は空まで逼っていた。蝦夷富士といわれるマッカリヌプリの麓に続く胆振の大草原を、日本海から内浦湾に吹きぬける西風が、打ち寄せる紆濤のように跡から跡から吹き払っていった。寒い風だ。
「カインの末裔」有島武郎(青空文庫)
末尾部(原文より)
二人の男女は重荷の下に苦しみながら少しずつ倶知安の方に動いて行った。 椴松帯が向うに見えた。凡ての樹が裸かになった中に、この樹だけは幽鬱な暗緑の葉色をあらためなかった。真直な幹が見渡す限り天を衝いて、怒濤のような風の音を籠めていた。二人の男女は蟻のように小さくその林に近づいて、やがてその中に呑み込まれてしまった。
「カインの末裔」有島武郎(青空文庫)
名文
長い影を地にひいて、痩馬の手綱を取りながら、彼れは黙りこくって歩いた。
北海道の小作地へ流れ着く一家を、長い影と痩馬だけで描く書き出し。土地にも人にも馴染めない男の荒々しい生が始まる。
原文を読む
原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。