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余が言文一致の由来(二葉亭四迷)のあらすじ・登場人物

円朝の落語どおりに書いてみた

二葉亭四迷 1906年(明治39年)5月 「文章世界」

文字数
1,816字
読了目安
約4分
表記
旧字旧仮名
種別
随筆

この作品について

1906年(明治39年)5月、雑誌『文章世界』に載った二葉亭四迷の短い談話。言文一致についての意見を求められた二葉亭が、研究と呼べるほどのものはないとして、自分が初めて言文一致体を書いたいきさつを語る。坪内逍遥に相談して三遊亭円朝の落語のとおりに書いてみるよう勧められたこと、「です」調の山田美妙に対して自分は「だ」調を選んだこと、日本語になりきっていない漢語は使わないという自分の規則と、式亭三馬の深川言葉を手がかりにした苦心などが、ざっくばらんな口調で明かされる。近代の口語文体が生まれた事情を当事者が語った資料として知られる。

あらすじ

言文一致について問われた二葉亭は、意見というほどの研究はないから懺悔話をしようと、文章が書けないことから言文一致が始まった顛末を語る。何か書いてみたいが文章下手で方角がわからず、坪内逍遥に相談すると、円朝の落語どおりに書いてみてはどうかと言われる。東京弁で書いて持って行くと、逍遥は膝を打って、このままでいい、直さないほうがいいと言った。敬語を使う「です」調にするか、使わない「だ」調にするかでは、逍遥の説に従って敬語なしで書いた。のちに発表された山田美妙の言文一致は「です」調で、美妙が「だ」調を試みてうまくゆかず「です」調に決めたのに対し、自分は逆に「です」調を考えて「だ」調にしたのだった。俗になりすぎると逍遥に上品にせよと言われ、『国民之友』に書いたころ徳富蘇峰には文章にしたほうがよいと勧められたが、自分は、国民語の資格を得ていない漢語や役目を終えた古語は使わず、今の言葉の自然な発達に任せるという規則を守り、式亭三馬の深川言葉だけを頼りに苦心した。ありふれた言葉を磨き上げようとした試みは結局不成功に終わったと認め、今は逍遥の主義に降参して、和文にも漢文にも留学中だと結ぶ。

冒頭部(原文より)

 言文一致に就いての意見、と、そんな大した研究はまだしてないから、寧ろ一つ懺悔話をしよう。それは、自分が初めて言文一致を書いた由來――も凄まじいが、つまり、文章が書けないから始まつたといふ一伍一什の顛末さ。  もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元來の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内先生の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は圓朝の落語を知つてゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。

「余が言文一致の由来」二葉亭四迷(青空文庫)

末尾部(原文より)

 當時、坪内先生は少し美文素を取り込めといはれたが、自分はそれが嫌ひであつた。否寧ろ美文素の入つて來るのを排斥しようと力めたといつた方が適切かも知れぬ。そして自分は、有り觸れた言葉をエラボレートしようとかゝつたのだが、併しこれは遂う/\不成功に終つた。恐らく誰がやつても不成功に終るであらうと思ふ、中々困難だからね。自分はかうして詰らぬ無駄骨を折つたものだが……。  思へばそれも或る時期以前のことだ。今かい、今はね、坪内先生の主義に降參して、和文にも漢文にも留學中だよ。

「余が言文一致の由来」二葉亭四迷(青空文庫)

名文

言文一致に就いての意見、と、そんな大した研究はまだしてないから、寧ろ一つ懺悔話をしよう。それは、自分が初めて言文一致を書いた由來――も凄まじいが、つまり、文章が書けないから始まつたといふ一伍一什の顛末さ。

二葉亭四迷『余が言文一致の由来』(1906年)の書き出し。『浮雲』で口語の文体を切り開いた本人が、その始まりは文章が書けなかったからだと打ち明ける。くだけた語り口そのものが言文一致の見本になっている。

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原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。

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