横光利一の名文
横光利一の作品から、よく知られた一節を集めました。
6件
蠅
眼の大きな蠅は、今や完全に休まったその羽根に力を籠めて、ただひとり、悠々と青空の中を飛んでいった。
物語の結び。御者の居眠りで乗合馬車が崖から転落し、乗客の運命が一瞬で断ち切られるなか、ただ一匹の蠅だけが悠々と飛び去る。人間の営みを突き放して眺める横光の冷徹な視線が際立つ。
頭ならびに腹
真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。
新感覚派の登場を告げた名高い三文。小駅が「石のやうに黙殺された」という擬人法の飛躍が、当時の文壇に衝撃を与えた。
春は馬車に乗って
この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先きに春を撒き撒きやって来たのさ
物語の結び。病床の妻に届いた花束を渡しながら、夫が口にする言葉。死の近い妻に春の訪れを告げるこの一言が、作品の題名となっている。
上海
満潮になると河は膨れて逆流した。測候所のシグナルが平和な風速を示して塔の上へ昇っていった。海関の尖塔が夜霧の中で煙り始めた。
横光利一『上海』(1928〜31年連載)の書き出し。短い文を重ね、人物より先に河や塔や霧の動きで租界の港町を描く。新感覚派の手法が長篇で結実した、映像的な冒頭として知られる。
機械
初めの間は私は私の家の主人が狂人ではないのかとときどき思った。
句読点を切りつめた独特の文体で始まる書き出し。ネームプレート製作所の四人の心理が、機械仕掛けのように噛み合っていく。
旅愁
家を取り壊した庭の中に、白い花をつけた杏の樹がただ一本立っている。復活祭の近づいた春寒い風が河岸から吹く度びに枝枝が慄えつつ弁を落していく。
横光利一『旅愁』(1937年連載開始)の書き出し。パリのセーヌ河岸、取り壊された家の庭に杏の花が一本残る光景から始まる。ヨーロッパに渡った日本の青年たちが、西洋と日本のあいだで揺れる長編の幕開けである。