春は馬車に乗って(横光利一)のあらすじ・登場人物
海辺の家の病む妻と夫
- 心理
- 家族
- 文字数
- 9,566字
- 読了目安
- 約19分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 神奈川県
この作品について
新感覚派の横光利一が1926年(大正15)8月、雑誌『女性』に発表した短編。結核を病む妻を看病した自身の体験にもとづく。海辺の家で床につく妻と、その世話に明け暮れる夫の日々を、鋭敏な感覚的比喩と、抑制された対話で描く。病む妻への愛情と、看病の疲れからくる倦怠やいさかいが交互にあらわれ、題名に掲げた季節の訪れが作品全体の背景になる。横光の初期短編の代表作として知られる。
あらすじ
海辺の松林に囲まれた家で、夫は長い病床にある妻に付き添って暮らしている。妻は結核をわずらい、日ごとに衰えていく。執筆で生活の糧を得ることと、病人の看護と、迫りくる死の予感とに追い詰められた夫は、ともすれば苛立ち、病妻との間には倦怠と諍いが影を落とす。それでも二人は、庭の亀や松の葉、寄せては返す波といった身の回りのささやかな風景を見つめながら、とりとめのない言葉を交わし、互いをいたわり合って長い冬をやり過ごしていく。死の近いことを二人とも承知しながら、あからさまには口にせず、抑えた対話の底に深い情愛を通わせる。やがて冬が過ぎ、庭に梅や椿が咲き、陽光に春の気配がにじみ始めたある日、夫は妻のために一束の花を買って帰る。「この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先きに春を撒きながらやって来たのだ」——差し出された花束を、妻は痩せた胸いっぱいに抱きしめ、その明るい花の中に蒼ざめた顔を埋めて、うっとりと目を閉じるのだった。
登場人物
- 夫 海辺の家で病床の妻を看護しながら執筆を続ける男。死にゆく妻への苛立ちと深い愛情の間で揺れる本作の主人公
- 妻 結核に冒され、長い病床にある夫の妻。衰えゆく体で、夫と抑えたいたわりの言葉を交わす
冒頭部(原文より)
海浜の松が凩に鳴り始めた。庭の片隅で一叢の小さなダリヤが縮んでいった。彼は妻の寝ている寝台の傍から、泉水の中の鈍い亀の姿を眺めていた。亀が泳ぐと、水面から輝り返された明るい水影が、乾いた石の上で揺れていた。
「春は馬車に乗って」横光利一(青空文庫)
末尾部(原文より)
「この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先きに春を撒き撒きやって来たのさ」妻は彼から花束を受けると両手で胸いっぱいに抱きしめた。そうして、彼女はその明るい花束の中へ蒼ざめた顔を埋めると、恍惚として眼を閉じた。
「春は馬車に乗って」横光利一(青空文庫)
名文
この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先きに春を撒き撒きやって来たのさ
物語の結び。病床の妻に届いた花束を渡しながら、夫が口にする言葉。死の近い妻に春の訪れを告げるこの一言が、作品の題名となっている。
原文を読む
原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。