蠅(横光利一)のあらすじ・登場人物
真夏の馬車に集まる人々と蠅
- 文字数
- 3,609字
- 読了目安
- 約7分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
この作品について
1923年5月、「文藝春秋」に発表された横光利一の短編。同時期の『日輪』とともに、作者が文壇に登場する際の作品として知られる。真夏の宿場へ、息子の危篤を知らされた農婦や、ひそかに旅する若い男女、子連れの母親などが集まってくる。だが、馭者は将棋や饅頭に気を取られ、馬車はなかなか出ない。それぞれに急ぐ理由のある人々と、その事情に歩調を合わせない日常が、小さな場面を切り替えるように描かれる。冒頭に現れる蠅や馬にも視線が向き、人間だけを中心に据えた物語とは異なる感触を生む。短い会話、音の反復、物の形や動きを鮮やかに捉える比喩が、炎天下の一瞬一瞬を際立たせる。誰か一人の心情に長く寄り添うよりも、同じ場所に居合わせる複数の存在を並べる構成が特徴。新感覚派の運動に先立つ時期の横光が、感覚と叙述の新しい形を試みた一編である。
あらすじ
真夏の宿場は空虚である。饅頭が蒸し上がるのを何より楽しみにする猫背の馭者は、急ぐ客たちを尻目に、なかなか馬車を出そうとしない。危篤の息子のもとへ急ぐ農婦は「馬車はまだかのう」と繰り返し、手に手を取った駆け落ちらしい若い男女、母親と無邪気な男の子、四十三年貧困と戦い、春蚕の仲買で八百円を手にした田舎紳士が、順に宿場へ集まってくる。饅頭が蒸し上がると、馭者はようやく喇叭を鳴らして馬車を出した。真夏の日盛りの道を馬車は走り、乗客たちはそれぞれの事情を抱えたまま、束の間の安堵に身を委ねる。腹掛けの饅頭をすっかり平らげた馭者は、やがて居眠りを始めた。それに気づいていたのは、馬の背から車体へ移った、あの眼の大きな一疋の蠅だけである。崖の頂上で一つの車輪が路から外れ、馬車は人馬もろとも崖下へ墜落する。河原の上には、圧し重なった人と馬と板片との塊りが沈黙したまま動かない。眼の大きな蠅だけが、今や完全に休まった羽根に力を籠めて、ただひとり、悠々と青空の中を飛んでいった。
登場人物
- 眼の大きな蠅 馬車の墜落を見届けるただ一つの目撃者
- 馭者 饅頭に執着する猫背の老人。その居眠りが惨事を招く
- 農婦 危篤の息子のもとへ急ぐ母親
冒頭部(原文より)
真夏の宿場は空虚であった。ただ眼の大きな一疋の蠅だけは、薄暗い厩の隅の蜘蛛の巣にひっかかると、後肢で網を跳ねつつ暫くぶらぶらと揺れていた。と、豆のようにぼたりと落ちた。そうして、馬糞の重みに斜めに突き立っている藁の端から、裸体にされた馬の背中まで這い上った。
「蠅」横光利一(青空文庫)
末尾部(原文より)
馬車は崖の頂上へさしかかった。馬は前方に現れた眼匿しの中の路に従って柔順に曲り始めた。しかし、そのとき、彼は自分の胴と、車体の幅とを考えることは出来なかった。一つの車輪が路から外れた。突然、馬は車体に引かれて突き立った。瞬間、蠅は飛び上った。と、車体と一緒に崖の下へ墜落して行く放埒な馬の腹が眼についた。そうして、人馬の悲鳴が高く一声発せられると、河原の上では、圧し重なった人と馬と板片との塊りが、沈黙したまま動かなかった。が、眼の大きな蠅は、今や完全に休まったその羽根に力を籠めて、ただひとり、悠々と青空の中を飛んでいった。
「蠅」横光利一(青空文庫)
名文
眼の大きな蠅は、今や完全に休まったその羽根に力を籠めて、ただひとり、悠々と青空の中を飛んでいった。
物語の結び。御者の居眠りで乗合馬車が崖から転落し、乗客の運命が一瞬で断ち切られるなか、ただ一匹の蠅だけが悠々と飛び去る。人間の営みを突き放して眺める横光の冷徹な視線が際立つ。
原文を読む
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