秋風と母(尾崎士郎)のあらすじ・登場人物
医者を待つ母の傍らで
- 家族
- 心理
- 文字数
- 5,584字
- 読了目安
- 約11分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
この作品について
1926年(大正15年)9月、『新小説』に発表された尾崎士郎の短編。昼過ぎに母の持病の発作が起こり、妻に呼ばれた「私」は下の家へ駆けつける。妹が呼びに行った医者は往診中で、戻るのは四時だという。暑い室内で母の背をさすりながら、「私」は残る三時間の重さを感じ、別の医者を探そうとする。看病する手の動きや、痩せた身体が掌に伝える感触を、物語は近い距離から記してゆく。母を失う不安だけでなく、妻の前では見せない肉親同士の親しさや、それに伴う後ろめたさも「私」の心に浮かぶ。窓辺の無花果の葉、室内に淀む熱気、周囲の物音が、心の動きと同じ細かさで描かれる。家族を思う気持ちを一つの美しい感情にまとめず、世話をする身体と揺れ続ける内心の両方から、病人の傍らにいる時間をとらえた作品だ。
あらすじ
昼を少し過ぎた頃、老いた母の容体が急に変わった。妻に呼ばれて「私」が慌てて下の家へ駆けおりると、母は敷きっぱなしの小さな蒲団の上で身体を海老のように曲げ、うめき声を立てながら下腹の苦痛に烈しく身をよじらせていた。いつもの持病の発作である。妻が背中をさすり、妹が近所へ医者を呼びに走るが、医者はあいにく往診に出て留守で、四時にならなければ帰らないという。町通りまで出れば別の医者もいるが、複雑な病を新しい医者に診せるのも不安で、私たちはただ母のかたわらで発作の鎮まるのを待つよりほかない。痩せ細った母の苦しむ姿を見つめながら、私は自分の無力さと、迫りくる死の予感とに胸を締めつけられる。やがて発作は一応おさまるものの、母の命がいつまで保つのかは誰にもわからない。私は病間を離れて自分の部屋に戻り、母のことを思う。「おふくろは生きているだろうかな」――ひとりごとのように呟いて、私は思わずどきりとする。窓の外の雑木林の梢に鳴る夜風の冷たさが、不意に身に沁みたからである。下の家のうすぐらい灯が曇り硝子ににじみ、母の室からは何か冷たい気流が流れてくるように感じられる。老いた母を看取ろうとする息子の心細さと、秋の夜気に触れた生と死の際どい感触とを、尾崎士郎は肉親への深い情をこめて簡潔に描き出す。
冒頭部(原文より)
昼少し過ぎてから母の容体が急に変ってきた。妻が呼びに来たので私が慌てて下の家へおりていったときには母は敷きっぱなしになっている小さい蒲団の上に身体をえびのように曲げてしゃがみ、絶えずいきむようなうめき声を立てながら苦痛に抵抗するために下腹部を烈しくよじらせていた。何時もの発作があらわれたのだ。
「秋風と母」尾崎士郎(青空文庫)
末尾部(原文より)
「おふくろは生きているだろうかな」 こう私はひとりごとのように言いかけて思わずどきっとした。窓越しに見える雑木林の梢に鳴る夜風の冷たさを不意に感じたからである。下の家のうすぐらいあかりが曇り硝子に沁みている。母の室から何かしら冷たい気流が流れてくるような気がする。――
「秋風と母」尾崎士郎(青空文庫)
原文を読む
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