本所松坂町(尾崎士郎)のあらすじ・登場人物
領民に慕われた吉良上野介
- 歴史
- 心理
- 文字数
- 27,622字
- 読了目安
- 約55分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 東京都
- 愛知県
この作品について
尾崎士郎が、故郷の三河吉良に伝わる領主の記憶から、吉良上野介を描いた歴史小説。1956年(昭和31年)の『文藝』臨時増刊号に掲載された。冒頭に置かれるのは、殿様を慕う土地の俗謡である。語り手は自分の郷里を紹介し、史蹟保存会の年譜や少年時代の赤馬の人形に触れながら、世間で流布する人物像に異議を唱える。やがて、赤い馬で領内を巡り、農家で番茶を飲む上野介の姿が現れる。地元の伝承をたどる文章と、人物の会話や動作を描く場面が行き来するところが特徴だ。語り手は読者に直接呼びかけ、同時代の新聞報道になぞらえるなど、ときに冗談も交えて筆を進める。事件の中心となる江戸の地名を題にしながら、地方に残る愛着や評判に目を向け、歴史上の人物がどの立場から語られるかを考えさせる。
あらすじ
「吉良の殿様よい殿様」と唄う俗謡が、三河吉良の郷に古くから流布している。江戸の本所松坂町の邸で赤穂浪士に討たれた吉良上野介は、忠臣蔵の物語のなかでは私欲深く陰険な敵役として描かれ、世間から憎まれ続けてきた。だが、その領地であった三河吉良の郷における上野介の姿は、まったく違ったものであった。上野介は赤い馬にまたがって折々領内を見廻り、水害に悩む土地に堤(黄金堤)を築き、新田を開いて年貢を軽くし、領民の暮らしを親身に気づかう名君であった。人々はその徳を慕い、殿様の来訪をよろこんで迎えた。物語は、江戸で起きた刃傷と討ち入りの経緯を追いながら、遠い郷里でその報せを受け取った領民たちの驚きと悲しみを描き出す。善行のかぎりをつくし、人生の行路を穏やかに終えようとしていた老殿の身に、運命はだしぬけに刃を突きつけた。討ち入りの後、吉良家は取り潰され、旧臣たちは離散する。上野介に仕えた郷里の若者・藤作は名を変えて上杉家の附け人となり、そのことがまた郷里で語り草となる。やがて二百五十年の歳月が流れても、横須賀村の人々は門戸を閉ざすように節を守り、赤い馬に乗った殿様の姿を記憶にとどめて、同じ物語を同じ調子で語り継いでゆく。黄金堤に秋風の立つころ、村には今年もまた秋祭りの季節が近づいてくる。忠臣蔵の陰に隠れた敗者の側から、土地と人の情を掘り起こした異色の歴史小説である。
冒頭部(原文より)
吉良の殿様よい殿様 赤いお馬の見廻りも 浪士にうたれてそれからは 仕様がないではないかいな、―― 巷間に流布されている俗謡は吉良郷民の心理を諷したものであろう。まったく仕様がない。メイファーズである。人間万事塞翁が馬、――何が起るか見当もつかないところに人間の宿命があるのであろう。
「本所松坂町」尾崎士郎(青空文庫)
末尾部(原文より)
二百五十年間、横須賀村は門戸をとざし、節をまもりとおした。誰れひとり藤作に会った男なぞはもういる筈もなかったが、しかし彼等は同じことを同じ調子で語りつたえていた。赤馬にまたがった上野介の姿はもう彼等の記憶にこびりついてしまっている。高原にかこまれた黄金堤には秋風の立つのが早い。今年も、もうそろそろ秋の夜祭の季節が近づこうとしている。
「本所松坂町」尾崎士郎(青空文庫)
原文を読む
原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。