百人秀歌とは

分類
形式・ジャンル
読み
ひゃくにんしゅうか

藤原定家が撰んだとされる秀歌撰で、『小倉百人一首』とごく近い内容をもつ。昭和26年(1951年)に国文学者の有吉保が紹介したことで広く知られるようになり、宮内庁書陵部などに伝本がある。百一首から成り、歌人のうち九十八人は百人一首と共通するが、百人一首の最後に置かれた後鳥羽院と順徳院の歌はなく、代わりに一条院皇后宮(藤原定子)・権中納言国信・権中納言長方の三人の歌を収める。共通する歌人でも源俊頼の歌は別の一首で、ほかにも語句の異なる歌がある。並べ方も百人一首とは異なり、二首ずつが対になるように配列されている。定家の日記『明月記』の文暦2年(1235年)5月27日の条には、宇都宮頼綱(蓮生)に頼まれて、嵯峨の山荘の障子に貼る色紙形の歌を書いたという記事があり、百人秀歌や百人一首の成立と結びつけて論じられてきた。百人秀歌が百人一首のもとになった草稿で、のちに後鳥羽院・順徳院の歌を加えるなどして百人一首が成ったとする見方が有力だが、両者の先後や撰者、成立の事情については異説も多く、定まっていない。承久の乱で配流された二人の院の歌がないことについては、定家が『新勅撰和歌集』から院たちの歌を除かざるをえなかった事情と関わるとみる推測もある。

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