御子左家とは
- 分類
- 結社・団体
- 読み
- みこひだりけ
藤原道長の六男・長家に始まる家系で、平安末期から鎌倉時代にかけて和歌の師範家となった歌道の家。長家が醍醐天皇の皇子・兼明親王の邸宅「御子左第」を伝領したことが名の由来である。ただし、俊成・定家の時代にこの名で呼ばれていたわけではなく、のちの呼び名をさかのぼらせて用いたものとされる。長家の曾孫にあたる藤原俊成は『千載和歌集』を撰び、藤原顕季に始まる六条家と歌壇の主導権を争った。その子・定家は『新古今和歌集』の撰者の一人となり、のちに『新勅撰和歌集』を単独で撰んで、歌の家としての地位を固めた。定家の子・為家も『続後撰和歌集』を撰び、三代続けて勅撰集の撰者を出したことで、家の権威は確かなものとなった。為家の没後、その子の為氏・為教・為相は、所領の相続や歌の正統をめぐって争い、二条家・京極家・冷泉家に分かれた。為相の母・阿仏尼が所領をめぐる訴えのために鎌倉へ下った旅を記したのが『十六夜日記』である。二条家は伝統を重んじる歌風で多くの勅撰集の撰者を出し、京極家の為兼は『玉葉和歌集』を撰んで清新な歌風を示した。二条家と京極家は南北朝時代までに途絶えたが、二条家の歌学は門弟たちに受け継がれ、のちの古今伝授へとつながった。冷泉家は今日まで京都に続き、定家の日記『明月記』をはじめとする多くの典籍を伝えている。