承久の乱とは

分類
その他
読み
じょうきゅうのらん

承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の打倒をはかって起こし、敗れた兵乱。承久元年(1219年)に三代将軍源実朝が暗殺されたのち、朝廷と幕府の関係は緊張を深めていた。上皇は承久3年5月、執権北条義時を追討する宣旨・院宣を出して兵を集めたが、北条泰時・時房らの率いる幕府の大軍が京へ攻め上り、およそ1か月で上皇方は敗れた。乱後、後鳥羽院は隠岐へ、順徳院は佐渡へ流され、土御門院もみずから望んで土佐へ移った。幕府は京に六波羅探題を置き、上皇方の所領を没収して、朝廷に対する優位を確かなものにした。この乱は和歌の世界にも深い影を落とした。『新古今和歌集』を主導した後鳥羽院は、隠岐でもこの集に手を入れて歌を削り(隠岐本)、延応元年(1239年)にその地で没した。順徳院は歌学書『八雲御抄』に佐渡で手を加え、仁治3年(1242年)に没している。藤原定家が撰んだ『新勅撰和歌集』では、幕府への配慮から院たちの歌が除かれた。小倉百人一首の最後に置かれた後鳥羽院の「人も惜し人も恨めし」と順徳院の「ももしきや」の歌は、いずれも乱より前の作で、のちに定家の子・為家が撰んだ『続後撰和歌集』に収められた。父子の二首で王朝の時代の終わりを告げるようなこの配列はよく知られている。乱の顛末は軍記物語『承久記』に語られ、歴史物語『増鏡』も隠岐の院の姿を描いている。

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