梨壺の五人とは

分類
その他
読み
なしつぼのごにん

天暦5年(951年)、村上天皇の命により内裏の昭陽舎に置かれた撰和歌所で、寄人として仕事にあたった五人の歌人・学者。大中臣能宣・清原元輔・源順・紀時文・坂上望城をいう。昭陽舎は庭に梨の木が植えられていたことから梨壺と呼ばれ、呼び名はこれにちなむ。和歌所の別当には藤原伊尹が任じられた。五人に課された仕事は、『後撰和歌集』の撰集と、『万葉集』の歌に訓を付けることの二つであった。万葉仮名で書かれた『万葉集』は、平安時代にはすでに読み解くのが難しくなっており、このとき初めて付けられた訓は、のちの訓と区別して「古点」と呼ばれる。訓読はとくに和漢の学に通じた源順が中心になったとされる。能宣と元輔は当代を代表する歌人で、順とともに三十六歌仙にも数えられる。元輔は清少納言の父、能宣は伊勢大輔の祖父にあたる。紀時文は紀貫之の子で、歌人としての実績よりも、父の遺した資料や書の腕を見込まれたと考えられている。坂上望城は宮中の書物を預かる御書所に勤めていた。『小倉百人一首』には元輔の「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」と、能宣の「みかきもり衛士のたく火の夜は燃え昼は消えつつ物をこそ思へ」が採られている。

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