淡島椿岳(内田魯庵)のあらすじ・登場人物
泥画に生きた過渡期の奇才
- 文字数
- 26,998字
- 読了目安
- 約54分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 随筆
この作品について
「俺の画は死ねば値が出る」と豪語し、大津絵風の泥画を描き擲った奇画人・淡島椿岳。江戸名物の軽焼商から油会所の才人、浅草の見世物師、淡島堂の堂守へと転々とした数奇な半生を、画家・寒月の父たる椿岳の一家の来歴とともにたどり、過渡期の文化が生んだ「畸形のハイブリッド」を活写する評伝的随筆。
あらすじ
内田魯庵が、画家・淡島寒月の父にして自らも奇画人として鳴らした淡島椿岳の生涯を描いた評伝的随筆。関東大震災で焼けた向島の梵雲庵を惜しむところから筆を起こし、豪放洒脱で伝統を無視した椿岳の泥画の魅力を語る。まず淡島氏の家系にさかのぼり、馬喰町の軽焼屋として身代を築いた二代目喜兵衛、川越の豪農内田家に生まれ幕末の巨富を築いた兄・伊藤八兵衛との関係を明かす。油会所の才人「小林城三」として武家を気取った前半生を経て、維新後は浅草で西洋覗眼鏡の見世物を当て、淡島堂の堂守となって奇名を売った。ピアノを叩きヴァイオリンを鳴らし琵琶を掻き鳴らして人を煙に巻き、百六十人以上の妾を持ったという畸行の数々、応挙の流れを汲みながら流派に縛られず泥絵具で描き擲った独自の画境と浅草絵、円福寺の格天井などの作品を紹介する。「今まではさまざまの事して見たが、死んで見るのはこれが初めて」と大笑して逝った臨終、そして没後に外国人が買い出したことで俄に高騰した椿岳蒐集熱までを、過渡期の文化が生んだ奇才への愛惜をこめて綴る。
登場人物
- 淡島椿岳(あわしまちんがく) 本姓服部、又の名を小林城三。軽焼商・油会所の才人から奇画人へと転じ、大津絵風の泥画を描き擲った。
- 淡島寒月(あわしまかんげつ) 椿岳の子。西鶴の発見者・元禄文学の復興者にして画家。梵雲庵に住んだ。
- 伊藤八兵衛(いとうはちべえ) 椿岳の兄。幕末江戸一の富豪と鳴らした豪商。
- 内田魯庵(うちだろあん) 著者。
冒頭部(原文より)
震火で灰となった記念物の中に史蹟というのは仰山だが、焼けてしまって惜まれる小さな遺跡や建物がある。淡島寒月の向島の旧庵の如きその一つである。今ではその跡にバラック住いをして旧廬の再興を志ざしているが、再興されても先代の椿岳の手沢の存する梵雲庵が復活するのではない。 寒月の名は西鶴の発見者及び元禄文学の復興者として夙に知られていたが、近時は画名が段々高くなって、新富町の焼けた竹葉の本店には襖から袋戸や扁額までも寒月ずくめの寒月の間というのが出来た位である。寒月の放胆無礙な画風は先人椿岳の衣鉢を承けたので、寒月の画を鑑賞するものは更に椿岳に遡るべきである。
「淡島椿岳」内田魯庵(青空文庫)
末尾部(原文より)
が、椿岳の最も勝れた蒐集が烏有に帰したといっても遺作はマダ散在している。椿岳の傑作の多くは下町に所蔵されていたから、大抵震火に亡びてしまったろうと想像されるが、椿岳独特の画境は大作よりはむしろ尺寸の小幀に発揮されてるから、再び展覧会が開かれたら意外の名幅がドコからか現れるかも知れない。かつ高価を支払われて外国へ流出したものも沢山あるらしいから、追付けクルトやズッコのお仲間が日本人の余り知らない傑作の複製を挿図した椿岳画伝を出版して欧洲読画界を動揺する事がないとも限られない。「俺の画は死ねば値が出る」と傲語した椿岳は苔下に会心の微笑を湛えつつ、「そウら見さっしゃい、印象派の表現派のとゴテ付いてるが、ゴークやセザンヌは疾っくに俺がやってる哩」とでも脂下ってるだろう。
「淡島椿岳」内田魯庵(青空文庫)
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