二葉亭四迷の一生(内田魯庵)のあらすじ・登場人物
親友が描く矛盾に満ちた生涯
- 文字数
- 52,709字
- 読了目安
- 約1時間45分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 随筆
この作品について
『浮雲』の作者・二葉亭四迷を、親しく交わった内田魯庵が描いた評伝。1909年(明治42年)の追悼文集『二葉亭四迷』に収めた文章をもとに、補修を重ねたものである。魯庵は冒頭で、よく知るのは官報局時代の二葉亭であり、幼少期や晩年まで身近に見ていたわけではないと断る。そのうえで、本人の生い立ちの手記、同窓生や知人の思い出、自分との会話を組み合わせ、一生の輪郭をたどっていく。軍人や外交官を志した青年が、ロシア語を学び、小説や翻訳に取り組んだ経緯には、文学の仕事だけでは収まらない関心の広がりが見える。経歴を並べる合間には、潔癖さや人見知り、壮大な抱負を伝える逸話が挟まれ、魯庵の評価や推測も加わる。著者が繰り返すのは、これは完成した肖像ではなく「デッサン」だという留保である。近しい人を記録する親愛と、その全体を語る難しさをともに示す一編。
あらすじ
著者・内田魯庵が、親友であった二葉亭四迷の死後に、その生涯を描いた評伝的な回想録である。魯庵はまず、これは故人の人格を完全に描き尽くす伝記ではなく、あくまで輪郭をたどる「デッサン」にすぎないと断りを入れる。二葉亭が自ら記した生い立ちの記を引きながら、江戸市ヶ谷に武士の子として生まれた幼少期、ロシアの南下に義憤を抱いて軍人を志すも果たせず、東京外国語学校でロシア語とロシア文学に傾倒していった青年期を追う。坪内逍遥との出会いを経て、言文一致体による画期的な小説『浮雲』を世に問いながらも、二葉亭は文学を「男子一生の事業」とするに足りぬものと考え、筆を折って官界や実業の世界を転々とする。晩年、朝日新聞の特派員としてロシアへ渡るが、病を得て帰国の途につき、印度洋上の船中で客死。新嘉坡近郊で荼毘に付された。魯庵は、小説家であることを潔しとせずみずから文学を捨てながら、なお文学史に不朽の名を残した二葉亭の矛盾を見つめ、「渠れ自身の一生は実に小説であった」と結ぶ。
登場人物
- 二葉亭四迷(ふたばていしめい) 本名・長谷川辰之助。著者の親友。ロシア語とロシア文学を学び、言文一致体の『浮雲』を書いた。文学に見切りをつけ、朝日新聞特派員として渡露、帰国途上に客死する。
- 内田魯庵(うちだろあん) 著者。『浮雲』刊行後に二葉亭と親しく交わった。
- 坪内逍遥(つぼうちしょうよう) 二葉亭が師事し交わった文学者。
- 池辺三山(いけべさんざん) 朝日新聞の記者。二葉亭の墓標を揮毫した。
冒頭部(原文より)
二葉亭の歿後、坪内、西本両氏と謀って故人の語学校時代の友人及び故人と多少の交誼ある文壇諸名家の追憶または感想を乞い、集めて一冊として故人の遺霊に手向けた。その折諸君のまちまちの憶出を補うために故人の一生の輪廓を描いて巻後に附載したが、草卒の際序述しばしば先後し、かつ故人を追懐する感慨に失して無用の冗句を累ね、故人の肖像のデッサンとして頗る不十分であった。即ち煩冗を去り補修を施こし、かつ更に若干の遺漏を書足して再び爰に収録するは二葉亭四迷の如何なる人であるかを世に紹介するためであって、肖像画家としての私の技術を示すためではない。かつ私が二葉亭と最も深く往来交互したのは『浮雲』発行後数年を過ぎた官報局時代であって幼時及び青年期を知らず、更に加うるに晩年期には互いに俗事に累わされて往来漸く疎く、臂を把って深く語るの機会を多く持たなかったから、二葉亭の親友の一人ではあるが、そのボスウェルとなるには最も親密に交際した期間が限られていた。 かつこの一篇は初めからデッサンのつもりで書いたゆえ、如何に改竄補修を加えてもデッサンは終にデッサンたるを免がれない。勿論二葉亭の文学や事業を批評したのではなく、いわば履歴書に註釈加えたに過ぎないので、平板なる記実にもし幾分たりとも故人の人物を想到せしむるを得たならこの一篇の目的は達せられている。
「二葉亭四迷の一生」内田魯庵(青空文庫)
末尾部(原文より)
三山は墓標に揮毫するに方って幾度も筆を措いて躊躇した。この二葉亭四迷は故人の最も憎める名であった。この名を墓標に勒するは故人の本意でないかも知れぬので、三山は筆を持って暫らく沈吟したが、シカモこの名は日本の文学史に永久に朽ちざる輝きである。二葉亭は果して自ら任ずる如き実行の経綸家であった乎否かは永久の謎としても、自ら屑よしとしない文学を以てすらもなおかつかくの如く永久朽ちざる事業を残したというは一層故人の材幹と功績の偉なるを伝うるに足るだろう。と、三山は終に意を決して二葉亭四迷と勒した。 以上はただ一生の輪廓を描いたに過ぎないが、人物と思想とは特に剖析細究しないでもほぼ知る事が出来よう。文人としての二葉亭の位置の如何なるやは暫らく世間の判断に任すとしても明治の文壇に類の少ない飛離れた人物であったはこの白描のデッサンを見てもおおよそ推測られよう。文人乎、非文人乎、英雄乎、俗人乎、二葉亭は終にその全人格を他にも自分にも明白に示さないで、あたかも彗星の如く不思議の光芒を残しつつ倏忽として去ってしまった。渠は小説家でなかったかも知れないが、渠れ自身の一生は実に小説であった。
「二葉亭四迷の一生」内田魯庵(青空文庫)
名文
少くも『浮雲』の作者は二十年、時代に先んじた先駈者であるといわねばなるまい。
内田魯庵が『浮雲』の歴史的意義を評した一文。未成品と認めつつ、言文一致の小説文体を切り開いた二葉亭の先駆性を言い切る。
文学の立場は各々違ってるから、一概に美妙や紅葉の取った道を間違ってると軽断するではないが、二葉亭にいわしむれば生活の血の滲まない製作は文学を冒涜する罪悪であったのだ。
筆で暮らしを立てる道を選べなかった二葉亭の文学観を、魯庵が要約した一節。真剣勝負としての文学に苦しんだ姿が浮かぶ。
文人乎、非文人乎、英雄乎、俗人乎、二葉亭は終にその全人格を他にも自分にも明白に示さないで、あたかも彗星の如く不思議の光芒を残しつつ倏忽として去ってしまった。渠は小説家でなかったかも知れないが、渠れ自身の一生は実に小説であった。
評伝『二葉亭四迷の一生』の結び。文学に収まりきらなかった友の生涯を、「一生は実に小説であった」と言い当てる。
原文を読む
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