アプリで読む

無料・登録不要

斎藤緑雨(内田魯庵)のあらすじ・登場人物

自作の死亡広告を遺した皮肉屋

内田魯庵 1913年(大正2年)4月 「現代」

文字数
10,804字
読了目安
約22分
表記
新字新仮名
種別
随筆

この作品について

1913年(大正2年)4月、『現代』に初出した内田魯庵の回想文。自分の死亡広告を洒落で書いた斎藤緑雨を、江戸戯作の流れを引く作家として描く。魯庵が思い起こすのは、薄笑いを浮かべた顔、一言で急所を突く警句、きちんと座って長く話し込む姿である。1890年夏、旅先へ届いた手紙が交遊の始まりだった。その手紙に添えられた俳句にも、流行の俳風をからかう仕掛けがあり、緑雨の批評は日常の振る舞いと切り離せないものとして語られる。整った身なりや、車夫を待たせる見栄と、楽ではない暮らしとの落差も、親しい人ならではの観察に残る。魯庵は緑雨をただ褒めるのでなく、その鋭さや自負、独りよがりに映る部分まで取り上げる。江戸の趣味と新しい文壇との間で生きた人物を、声や姿や手紙から捉え直す一編である。作品への評価にも交際の記憶が重なり、追憶と批評が行き来する。

あらすじ

「僕は、本月本日を以て目出たく死去仕候」という自作の死亡広告を新聞に出して世を去った作家・斎藤緑雨を、著者が追想する。魯庵は緑雨を、化政期の戯作文学の最後の火花であり、緑雨以後に真の江戸っ子文学は絶えたと位置づける。細面に浮かぶ冷やかな微笑(スニーア)を千両の魅力とし、寡黙でありながら、鈍い者たちが千言費やしても言えないことを一言で射抜く警句を得意とした緑雨の風貌と気質を、生き生きと描き出す。明治二十三年、温泉地で受け取った談林調の俳句をしたためた手紙が交遊の始まりだったこと、逍遥や鴎外らと結んで新しい流れにも敏感でありながら、根は江戸戯作者の系統を引いて人生問題や社会問題を野暮と退けたこと、世に持ち上げられて自負が高まるにつれ皮肉の冴えを失い、失意のうちに愚痴が増えていった晩年までをたどる。友の見舞う者もない淋しい終焉ののち、露伴が悲痛な祭文を読んだ雨の告別式を描き、『油地獄』『雨蛙』を緑雨の傑作としつつ、江戸趣味に殉じた一代の奇才を惜しむ。

登場人物

冒頭部(原文より)

「僕は、本月本日を以て目出たく死去仕候」という死亡の自家広告を出したのは斎藤緑雨が一生のお別れの皮肉というよりも江戸ッ子作者の最後のシャレの吐きじまいをしたので、化政度戯作文学のラスト・スパークである。緑雨以後真の江戸ッ子文学は絶えてしまった。 紅葉も江戸ッ子作者の流れを汲んだが、紅葉は平民の子であっても山の手の士族町に育って大学の空気を吸った。緑雨は士族の家に生れたが、下町に育って江戸の気分にヨリ多く浸っていた。緑雨の最後の死亡自家広告は三馬や一九やその他の江戸作者の死生を茶にした辞世と共通する江戸ッ子作者特有のシャレであって、緑雨は死の瞬間までもイイ気持になって江戸の戯作者の浮世三分五厘の人生観を歌っていたのだ。

「斎藤緑雨」内田魯庵(青空文庫)

末尾部(原文より)

 が、緑雨の傑作はやはり『油地獄』と『雨蛙』であろう。この二つはいずれも緑雨自身の不得意とする作で、人の褒めるのが癪に触るといって喰って掛ったものであるが、緑雨が自ら得意とする『かくれんぼ』や『門三味線』よりは確に永遠の生命がある。聡明な眼識を持っていたがやはり江戸作者の系統を引いてシャレや小唄の粋を拾って練りに練り上げた文章上の「穿ち」を得意とし、世間に通用しない「独りよがり」が世間に認められないのを不満としつつも、誰にも理解されないのをかえって得意がる気味があった。が、紅葉も露伴も飽かれた今日、緑雨だけが相変らず読まれて、昨年縮印された全集がかなりな部数を売ったというは緑雨の随喜者が今でもマダ絶えないものと見える。緑雨は定めし苔の下でニヤリニヤリと脂下ってるだろう。だが、江戸の作者の伝統を引いた最後の一人たる緑雨の作は過渡期の驕児の不遇の悶えとして存在の理由がある。が、こう世の中が世智辛くなっては緑雨のような人物はモウ出まいと思うと何となく落莫の感がある。

「斎藤緑雨」内田魯庵(青空文庫)

原文を読む

原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。

青空文庫の図書カード

同じ作家の作品