美妙斎美妙(内田魯庵)のあらすじ・登場人物
線香花火のごとき天才の栄枯
- 文字数
- 11,951字
- 読了目安
- 約24分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 随筆
この作品について
言文一致の文体で一躍文壇の大立者となりながら、線香花火のように人気を失い悲惨な最期を遂げた山田美妙。欧化熱が生んだ「早産児」の栄光と失墜を、初対面の印象や紅葉との対比を交え、内田魯庵が同時代の目で分析する評伝的回想。
あらすじ
内田魯庵が、日本の言文一致の先駆者・山田美妙の栄枯盛衰を描いた回想。欧化熱の絶頂に西洋臭い言文一致体を創めて一躍文壇の大立者となった美妙を「欧化熱の人工孵卵器で孵化された早産児」と評し、「武蔵野」『夏木立』での登場、硯友社の『我楽多文庫』と自らが主宰した『都之花』にまたがった全盛、『国民之友』附録の「蝴蝶」に添えた裸体画が呼んだ大評判までを追う。金港堂編輯所での初対面や駿河台の陰気な長屋への訪問など、著者自身の見聞をまじえて美妙の博覧と若さを伝える。人気失墜の原因を、少年での早成、文章の新味の飽き、下手な評論への手出し、多才ゆえの散漫、偏狭で誠実を欠いた交際、稲舟女史との関係の新聞沙汰など六点に整理し、盟友紅葉が社交の才で勢力を伸ばしたのと対照させる。二葉亭追悼録への卑下した返事、シュークリームを枕頭に残して逝った悲惨な臨終を伝え、天才の一失を寛容しなかった社会の残忍を難じて結ぶ。
登場人物
- 山田美妙(やまだびみょう) 美妙斎美妙。言文一致体で一躍文壇の大立者となったが、急速に人気を失い悲惨な最期を遂げた。
- 尾崎紅葉(おざきこうよう) 美妙と同じ町に育ち硯友社を共に組織したが袂を分かった。社交の才で美妙に取って代わった。
- 田沢稲舟(たざわいなぶね) 美妙の妻となった女流作家。結婚後まもなく悲劇の犠牲となった。
- 内田魯庵(うちだろあん) 著者。学生時代から美妙と数度音信・面会した。
冒頭部(原文より)
丁度この欧化主義の最絶頂に達して、一も西洋、二も西洋と、上下有頂天となって西欧文化を高調した時、この潮流に棹さして極端に西洋臭い言文一致の文体を創めたのが忽ち人気を沸騰して、一躍文壇の大立者となったのは山田美妙斎であった。美妙斎はあたかも欧化熱の人工孵卵器で孵化された早産児であった。 これより先き美妙斎は薩摩の美少年の古い物語を歌った新体詞を単行本として発表した。外山博士一流の「死地に乗入る六百騎」的の書生節とは違って優艶富麗の七五調を聯べた歌らしい歌であったが、世間を動かすほどに注意を牽かないでしまった。
「美妙斎美妙」内田魯庵(青空文庫)
末尾部(原文より)
それから数月経って聞いた咄だが、最後は石橋思案と丸岡九華が専ら世話をしたそうだ。いよいよ重体となってから、九華はシュークリームが美妙の大好物であると聞いて見舞に一と折持って行った。美妙は大変喜んだので、家人も厚く感謝して大切にし、病人の外は子供にさえも手をつけさせなかったそうで、黴の生えたシュークリームが臨終の枕頭に残っていたそうだ。日本の言文一致の先駆者(あるいは創始者)として文壇の風雲を捲起した一代の才人の終焉として何たる悲惨の逸事であろう。こういう悲惨な運命を速いたのは畢竟美妙自身の罪であったが、身から出た錆であったにしても、日本の新文体の創始者に対して天才の一失を寛容しなかった社会は実に残忍である。
「美妙斎美妙」内田魯庵(青空文庫)
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