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文章の一形式(坂口安吾)のあらすじ・登場人物

真実らしさの形式を探る

坂口安吾 1935年(昭和10年)9月 「作品」

文字数
4,860字
読了目安
約10分
表記
新字新仮名

この作品について

1935年、雑誌「作品」に載った、坂口安吾の文章論。断定を避けて「らしい」「ようであった」と書いてしまうという自分の癖を出発点に、小説の「真実らしさ」は内容の実感ではなく形式によって生まれると論じる。四人称の語り手や、ドストエフスキーの分裂的な構成を引きながら、自分が目指す小説の方法を探っている。

あらすじ

安吾は、文章を書くとき断定的な言い方が気がかりで、「こう考えた」と書く代わりに「こう考えたらしい」と書いてしまうと述べる。複雑な心理は一つの断定では言いきれず、読者と協力して言外の意味を感じ当てたいからだ。小説の部分は停止点ではなく接続点であるべきで、内容の実感を先に立てると、かえって進行が渋滞して虚偽を犯しがちになる。そこで彼は、形式の真実らしさによって内容の発展を自由にしたいと考える。外国語では文法上必ず設けられる、作中の人物でも作者でもない第四人称の話者について、日本語は主格を置かずに済むため、「らしい」という言い方で肉体のない説話者を保てるだろうと論じる。また、事件と事件の連絡をことさらに組織立てず、分裂的に並べることで強い真実感を出すドストエフスキーの手法を学びたいという。最後に、「真実らしさ」の「らしさ」にこそ期待をかけると述べ、今日の神経に許される最も便宜的な世界で、真実らしい文章の形式を考案したいと結ぶ。

冒頭部(原文より)

 私は文章を書いていて、断定的な言い方をするのが甚だ気がかりの場合が多い。心理の説明なぞの場合が殊に然うで、断定的に言いきってしまうと、忽ち真実を掴み損ねたような疑いに落ちこんでしまう。そこで私は、彼はこう考えた、と書くかわりに、こう考えたようであった、とか、こう考えたらしいと言う風に書くのである。つまり読者と協力して、共々言外のところに新らたな意味を感じ当てたいという考えであるが、これは未熟を弥縫する卑怯な手段のようにも見えるが、私としては自分の文学に課せられた避くべからざる問題をそこに見出さずにいられない気持である。

「文章の一形式」坂口安吾(青空文庫)

末尾部(原文より)

 蛇足ながら最後に一言つけ加えておくと、私は「真実らしさ」の「らしさ」に最も多くの期待をつなぐものであって、それ自体として真実である世界は、それがすでに一つの停止であり終りであることからも、興味がもてない。「らしさ」はあらゆる可能であり、かつ又最も便宜的な世界である。芸術としては最も低俗な約束の世界であろうが、然しともかくここまでは芸術として許されうる世界であって、従って最も広く、暢達な歩みを運ぶこともできるのである。表面の形は低俗であっても、最も暢達の世界であるために、結果に於て最も低俗ならざる深さ高さ大いさに達することができるのだ。左様な考えから、今日の神経に許されうる最も便宜的な世界に於て、真実らしき文章の形式を考案したいと考えているのである。

「文章の一形式」坂口安吾(青空文庫)

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