デカダン文学論(坂口安吾)のあらすじ・登場人物
堕ちる道を誠実に歩く
- 文字数
- 9,561字
- 読了目安
- 約19分
- 表記
- 新字新仮名
この作品について
1946年(昭和21年)10月、「新潮」に発表された坂口安吾の評論。同じ年の「堕落論」と並んで、敗戦直後の安吾の考え方を知る手がかりになる。極意書や「サビ」「幽玄」を尊んで実質を離れてゆく日本的思考を「幽霊」にたとえ、島崎藤村「新生」、横光利一、夏目漱石らを俎上にのせて、作家と作品とのあいだの「距離」を問う。末尾でデカダンスそのものが目的ではなく、自分自身を欺かず誠実に堕ちつづける生き方を求めるのだと述べる。
あらすじ
(内容の要旨)安吾はまず、剣術や茶の極意書のように、実質的な便利や進歩を下品と見て奥義や通を重んじてきた日本の思考を批判する。ガン首の大きなパイプを考えずに、一服吸ってポンと叩く心境を尊んだようなものだという。その結び目にあるのが家庭感情という伏魔殿で、批評家平野謙の論をきっかけに、藤村の「新生」は作家と作品とのあいだに「距離」があり、世間体と名誉に縛られた不誠実な小説だと断じる。横光利一にも同じ空虚な苦闘を見る。漱石は家庭の陰鬱さを知と理で合理化しただけで、人間そのものを突きとめなかったと言う。次に、困苦欠乏に耐える美徳や処女の純潔といった「健全な」道徳を疑い、人間は美しいものも正しいことも同じように愛するのだと述べる。日本の家庭は人間を欠いた巣にすぎず、娼婦の世界のほうに男女の真実があるとも書く。最後に、自分はデカダンスを目的とするのではなく、贋の道徳に縛られず自分自身として生き、堕ちつづけ書きつづけるのだと宣言して結ぶ。
冒頭部(原文より)
極意だの免許皆伝などというのは茶とか活花とか忍術とか剣術の話かと思っていたら、関孝和の算術などでも斎戒沐浴して血判を捺し自分の子供と二人の弟子以外には伝えないなどとやっている。尤も西洋でも昔は最高の数理を秘伝視して門外不出の例はあるそうだが、日本は特別で、なんでも極意書ときて次に斎戒沐浴、曰く言い難しとくる。私はタバコが配給になって生れて始めてキザミを吸ったが、昔の人間だって三服四服はつづけさまに吸った筈で、さすればガン首の大きいパイプを発明するのが当然の筈であるのに、そういう便利な実質的な進歩発明という算段は浮かばずに、タバコは一服吸ってポンと叩くところがよいなどというフザけた通が生れ育ち、現実に停止して進化が失われ、その停止を弄んでフザけた通や極意や奥義書が生れて、実質的な進歩、ガン首を大きくしろというような当然な欲求は下品なもの、通ならざる俗なものと考えられてしまうのである。
「デカダン文学論」坂口安吾(青空文庫)
末尾部(原文より)
めいめいが各自の独自なそして誠実な生活をもとめることが人生の目的でなくて、他の何物が人生の目的だろうか。 私はただ、私自身として、生きたいだけだ。 私は風景の中で安息したいとは思わない。又、安息し得ない人間である。私はただ人間を愛す。私を愛す。私の愛するものを愛す。徹頭徹尾、愛す。そして、私は私自身を発見しなければならないように、私の愛するものを発見しなければならないので、私は堕ちつづけ、そして、私は書きつづけるであろう。神よ。わが青春を愛する心の死に至るまで衰えざらんことを。
「デカダン文学論」坂口安吾(青空文庫)
名文
私はただ、私自身として、生きたいだけだ。
安吾『デカダン文学論』の結び近くの一文。通や極意に寄りかかる生き方を退け、自分自身として生きることを宣言する。
私はただ人間を愛す。私を愛す。私の愛するものを愛す。徹頭徹尾、愛す。
短い文を畳みかけて人間への愛を言い切る一節。安息を拒み、堕ちつづけ書きつづけるという安吾の文学観へつながる。
神よ。わが青春を愛する心の死に至るまで衰えざらんことを。
『デカダン文学論』の最後の一文。祈りの形で結ばれた、安吾の青春と文学への思いが率直に表れた言葉である。
原文を読む
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