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ドストエフスキーとバルザック(坂口安吾)のあらすじ・登場人物

小説は感動の書である

坂口安吾 1933年(昭和8年)11月 「行動」

文字数
2,949字
読了目安
約6分
表記
新字旧仮名

この作品について

1933年(昭和8年)11月、「行動」第1巻第2号に発表された坂口安吾の短い小説論。本文末に「一九三三・九・二五・新潟にて」とあり、二十代半ばに書かれた文章。小説を「感動の書」とし、文章の巧拙ではなく人間観察の深さで測るべきだと述べ、説明を嫌って行動の連鎖で人物を示すバルザックとドストエフスキーの強さを讃える。のちの安吾の文学観につながる要素が早くも出ている。

あらすじ

(内容の要旨)安吾は散文を小説と作文に分け、小説としての散文の良し悪しは、いわゆる名文悪文とは関係がなく、人間観察の方法と深さで決まると言う。小説は人間が避けがたい宿命に反抗し、あるいは屈服して弄ぶ薬であり玩具であって、深い洞察で始まり大きな感動で終わるべきものだ。ゴルスワージの細かな観察は認めるが、それだけで傑作とは言えない。近ごろ読むのはドストエフスキーとバルザックで、バルザックの「従妹ベット」では網のように張りめぐらされた人物が現実よりも真実に踊りだすのに驚いたと書く。小説では説明を嫌い、行動から行動への連鎖で人物を示し、暗示によって読者に感じさせるのがよい。日本の文学はレアリズムを狭くとらえ、人物の行為を出し惜しみしているが、空想も人間が生む以上は現実であり、二人は人物を飛躍させて「小説の真実」の中で書きまくる。その羨ましさと啓発を述べて結ぶ。

冒頭部(原文より)

 散文に二種あると考へてゐるが、一を小説、他を作文とかりに言つておく。  小説としての散文の上手下手は、所謂文章――名文悪文と俗に言はれるあのこととは凡そ関係がない。所謂名文と呼ばれるものは、右と書くべき場合に、言葉の調子で左と書いたりすることの多いもので、これでは小説にならない。漢文日本には此の弊が多い。  小説としての散文は、人間観察の方法、態度、深浅等に由つて文章が決定づけられ、同時に評価もさるべきものであつて、文章の体裁が纏つてゐたり調子が揃つてゐたところで、小説本来の価値を左右することにはならない。文章の体裁を纏めるよりも、書くべき事柄を完膚なく「書きまくる」べき性質のものである。

「ドストエフスキーとバルザック」坂口安吾(青空文庫)

末尾部(原文より)

ただ一人の人物を頭の中で完全に育てあげるといふことさへ至難な業であるのに、バルザックの持つ人物の多様さよ。深さよ。小説は寧ろ「書きまくる」べき性質のものだと述べたが、書きまくるほど多くのことを身について持つには、よほどの勉強が必要であらう。バルザックやドストエフスキーを読むと、あの多様さを、あの深い根底から縦横無尽に書きまくつてゐるのに、呆然とすることがある。  人生への、人の悲しき十字架への全き肯定から生れてくる尊き悪魔の温かさは私を打つ。 (一九三三・九・二五・新潟にて)

「ドストエフスキーとバルザック」坂口安吾(青空文庫)

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