FARCE に就て(坂口安吾)のあらすじ・登場人物
道化にも高い精神がある
- 文字数
- 10,219字
- 読了目安
- 約20分
- 表記
- 新字新仮名
この作品について
1932年、雑誌「青い馬」第五号に発表された、坂口安吾の初期の評論。安吾が自分の文学の旗印とした「ファルス」(道化・笑劇)について、悲劇や喜劇よりも低い精神から生まれるものではないと論じる。狂言や西鶴、「浮世風呂」「膝栗毛」など日本の古典の滑稽文学を挙げ、世阿弥の「花」の考えにも触れながら、笑いの文学を擁護する。文章そのものが道化の口調で書かれ、論じる姿勢と文体が一体になっている。
あらすじ
安吾は、芸術の最高形式はファルスだと逆説を弄したいわけではないが、道化が悲劇や喜劇より低い精神から生まれるとも考えないと言い出す。浅学を白状し、「芸術」の語を語彙から追放して、悲劇も喜劇も道化も一様に芝居とみなし、それを創る精神だけを問題にすると断る。真面目な文学を悲劇、涙の裏打ちのある笑劇や小説を喜劇、乱痴気騒ぎに終始するものを道化と仮に呼び、道化も高い精神から生まれ、外形ほどトンチンカンな精神の産物ではないと主張する。まず指摘するのは、日本の古典に優れた滑稽文学が多いことで、狂言、西鶴、浮世風呂、浮世床、八笑人、膝栗毛、平賀源内や京伝、黄表紙、落語などを挙げる。古典は現実をありのまま写すことを嫌い、ある角度から現実を高める傾向があり、世阿弥が「まず花を与える」と説いた精神が戯作者たちにも流れているという。そのうえで、ファルスを人間的に扱い世相を染み込ませようとするときの短所にも触れ、落語が高座で芸術になる例を引いて、技術の開拓の余地を説く。文学としての道化は古来軽んじられてきたぶん新しい開拓が必要で、もっと意識的にファルスは育てられてよい、せめて軽蔑だけはやめてほしいと結ぶ。
冒頭部(原文より)
芸術の最高形式はファルスである、なぞと、勿体振って逆説を述べたいわけでは無論ないが、然し私は、悲劇や喜劇よりも同等以下に低い精神から道化が生み出されるものとは考えていない。然し一般には、笑いは泪より内容の低いものとせられ、当今は、喜劇というものが泪の裏打ちによってのみ危く抹殺を免かれている位いであるから、道化の如き代物は、芸術の埒外へ投げ捨てられているのが普通である。と言って、それだからと言って、私は別に義憤を感じて爰に立ち上った英雄では決して無く、私の所論が受け容れられる容れられないに拘泥なく、一人白熱して熱狂しようとする――つまり之が、即ち拙者のファルス精神でありますが。
「FARCE に就て」坂口安吾(青空文庫)
末尾部(原文より)
私は深い知識があるわけではないので良くは知らないのであるが、当て推量で言ってみれば、「道化」は、その本来の性質として、恐らく人智のあると共にその歴史は古いように思われるし、且又、それだけに特別の努力も払われたことはなく、大して新生面も附け加えられて来なかったように考えられてならぬのである。もっと意識的に、ファルスは育てられていいように私は思うのである。せめてファルスを軽蔑することは、これは無くてもいいと思うが―― 肩が凝らないだけでも、仲々どうして、大したものだと思うのです。Peste!
「FARCE に就て」坂口安吾(青空文庫)
名文
ファルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定しようとするものである。
安吾が道化芝居の精神を論じた『FARCEに就て』の核心の一文。笑いを泪より低いものとみる通念に抗い、ファルスを人間の全的な肯定と定義する。
原文を読む
原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。