呉清源(坂口安吾)のあらすじ・登場人物
勝負の鬼と人間の限界
- 文字数
- 5,333字
- 読了目安
- 約11分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 随筆
この作品について
碁の呉清源八段と二度会った体験を軸に、勝負に没頭する棋士の気魄と、天才が宗教に入らざるをえない苦悶を論じた随筆。本因坊との十番碁の第一局を観戦した際の旅館での振る舞いや、将棋の升田八段との比較などを通して、呉清源の「完全な鬼」ぶりを描く。初出は「文学界」1948(昭和23)年10月号。
あらすじ
作者は呉清源と二度しか会っていない。一度目は月刊読売の企画で五子の碁を打ち、真剣に闘志を燃やす呉氏に、一匹の虫を踏みつぶすにも虎が全力をつくすような気魄を感じた。二度目は読売主催の本因坊との十番碁の第一局で、観戦記を書くために前夜から旅館に詰めた。呉氏は「神様」の教団を応援のため津軽から呼んでいたが、一行が警察に留置される騒ぎで、対局前夜に姿を現したのは夜十一時半だった。呉氏は風呂へ入り、朝は卵とリンゴとみそ汁だけの食事をとり、対局が終わるとすぐ席を立つ。他人の思惑をまったく顧みない、自分一方の流儀を貫く男である。作者は、升田八段の気負いや、坂田七段の気分による自滅と対比しつつ、呉清源には情緒や気分の気おくれがなく、「非人間性」とも言える正確さと執念があると述べる。対局中に本因坊が忘れ物を取りに帰りたいと言うと、呉氏が理づめで争碁のシキタリを説いて譲らなかった逸話も紹介される。ただし、そういう鬼でも、自己の力の限界という問題だけは機械のように処理できず、内奥で永遠の嵐のように苦闘する。呉清源が「神様」に入門せざるをえなかったのは、天才の悲劇的な宿命だったろうと作者は結ぶ。
冒頭部(原文より)
私は呉清源と二度しか会ったことがない。この春、月刊読売にたのまれて、呉清源と五子で対局した。五子は元々ムリなのだが、私も大いに闘志をもやしたせいか、呉氏を攻めて、呉氏の方が私よりも長考するような場面が現れ、こう考えられては、私の勝てる筈はない。アッサリ打棄られたが、私のヘボ碁には出来すぎた碁で、黒白童子や覆面子を感心させ、呉氏もほめていたそうだ。
「呉清源」坂口安吾(青空文庫)
末尾部(原文より)
しかも、彼らほどの鬼の心、勝負にこもる非人間性をもってしても、自己の力の限界、自己の限界、このことに就てのみは、機械の如く、鬼の如く、非人間的に処理はできない。否、その自らの内奥に於て、最大の振幅に於て、苦闘、混乱せざるを得ないのである。むしろ彼らの魂が完全な鬼の魂であるために、内奥の苦闘は、たゞ、永遠の嵐自体に外ならない。 呉清源がジコーサマに入門せざるを得なかったのも、天才の悲劇的な宿命であったろうと私は思う。
「呉清源」坂口安吾(青空文庫)
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