発句私見(芥川龍之介)のあらすじ・登場人物
季題無用、十七音と調べを説く
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この作品について
芥川龍之介が発句(俳句)について、「十七音」「季題」「詩語」「調べ」の四章で自分の考えを述べた短い評論。十七音という形式こそが発句を発句たらしめるとし、季題は無用だが詩語は必要だと説く。新傾向の俳句への批判と、芭蕉の句を例にした調べへのこだわりが主張の中心で、「ホトトギス」1926年7月に掲載された。
あらすじ
一「十七音」では、発句は十七音を原則とし、それ以外のものは短詩と呼ぶのがよいと言い、湯呑みと茶碗の例えで、内容でなく形式こそが発句を発句たらしめると述べる。二「季題」では、今日の季題には玉葱や天の川のような日常語も含まれ、そのせいで季感が流俗に陥りやすいので、発句に季題は不要だと主張する。三「詩語」では、季題は無用だが「行春」のように祖先から伝わる美しい語感を持った詩語は無用でないとして、芭蕉の句を引く。四「調べ」では、発句も詩であれば調べを要し、元禄人には元禄人の、大正人には大正人の調べがあるとしたうえで、十七音かどうかだけを調べと見るのは新傾向の作家たちの誤りだと言う。芭蕉の三句を、すべて十七音でありながら調べが違う例として挙げ、末尾で山崎楽堂の「俳句格調の本義」から恩を受けたと付記する。
冒頭部(原文より)
発句は十七音を原則としてゐる。十七音以外のものを発句と呼ぶのは、――或は新傾向の句と呼ぶのは短詩と呼ぶのの勝れるに若かない。
「発句私見」芥川龍之介(青空文庫)
末尾部(原文より)
これ等の句は悉く十七音でありながら、それぞれ調べを異にしてゐる。かう云ふ調べの上の妙は大正びとは畢に元禄びとに若かない。子規居士は俊邁の材により、頗る引き緊つた調べを好んだ。しかしその余弊は子規居士以後の発句の調べを粗雑にした。単にその調べの上の工夫を凝らしたと云ふ点から言へば所謂新傾向の作家たちは十七音によらないだけに或は俳人たちに勝つてゐるであらう。 (十五・四・二十三)
「発句私見」芥川龍之介(青空文庫)
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