プロレタリア文学論(芥川龍之介)のあらすじ・登場人物
作者の態度で分かつ文学
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この作品について
芥川龍之介の短い評論。自らはブルジョア作家と見られているが、プロレタリア文学を弁護したいと述べて始める。プロレタリア文学とブルジョア文学の区別は作者や題材ではなく作者の態度によるとし、宣伝を目的とするとしても作品は文学としてうまくなければならないと説く。
あらすじ
プロレタリア文学とは何かを考え、プロレタリア文明がまだ存在しない現在、同じ文明のなかで作家次第でプロレタリア文学ともブルジョア文学ともなると述べる。作者の出身や作中の題材では区別できず、バーナード・ショーの例を引き、作者の態度、つまりプロレタリアの精神に味方するか否かで分かれるとする。宣伝を主とするものと文芸を作るかたわら宣伝するものに分け、現在は将来への踏み台だから拙くてもよいという論は成り立たないと主張する。この三、四年来のプロレタリア文学はまだ胸を打つ作品を生んでいないとし、新人がこの処女地を開拓し、良いプロレタリア文学の完成を期待すると結ぶ。
冒頭部(原文より)
こゝではプロレタリア文学の悪口をいふのではない。これを弁護しやうと思ふ。しかし私は一般にブルヂヨア作家と目されてゐる所より、お前などが弁護する必要がないといはれるかも知れない。 プロレタリア文学とは何であるか。これには色々の人がそれ/″\異つた見解を述べてゐるが、私はプロレタリア文明の生んだ文学でブルヂヨア文明の生んだブルヂヨア文学と対比すべきものであると思ふ。
「プロレタリア文学論」芥川龍之介(青空文庫)
末尾部(原文より)
私が文壇においてプロレタリア文学の叫びは三四年来耳にするのであるが、私の目する所をもつてすれば私達の胸を打つプロレタリア文学なるものは未だ嘗て現れないやうであり、又同時にプロレタリア文学は誰の人によつても未だ形ちをもつに至らざる処女地のやうなものであると思ふ。私達今の作家の多くが所謂ブルヂヨア的である故にこれから新しい文学を樹立せんとする新人は大いにプロレタリア文学の処女地を開拓すべきであらうと思ふ。いゝものはいゝのである。プロレタリア文学の完成を私は大いに期待するものである。
「プロレタリア文学論」芥川龍之介(青空文庫)
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