慶応義塾の記(福沢諭吉)のあらすじ・登場人物
義塾を創めた趣意
- 文字数
- 1,648字
- 読了目安
- 約3分
- 表記
- 新字新仮名
この作品について
福沢諭吉が、洋学を学ぶ会社として義塾を創め、「慶応義塾」と名づけるにあたって記した設立の趣意。享保以来の蘭学の歩みをたどり、嘉永の開国をきっかけに洋学が興ったことを述べ、集まる同志に励ましの言葉を送る。短い文章ながら、福沢が洋学の歴史と義塾の役割をどう見ていたかが分かる。
あらすじ
洋学の興りをたずねると、享保の頃、長崎の通詞が蘭書を読み習う許しを願い出たのが始まりだと述べる。宝暦・明和には青木昆陽が学を唱え、前野蘭化、桂川甫周らが、師も書物も乏しいなかで長崎の通詞に疑問を質しながら学んだ。天保・弘化の頃には、宇田川榛斎父子、坪井信道、緒方洪庵らが相次ぎ、読書と翻訳の法が開けたが、書物は主として蘭学の医書に限られた。嘉永の末にアメリカが渡来して和親・貿易の約が結ばれ、英・仏・露などとも交わるようになって洋学の名が起こり、学科が一時に興ったと述べ、学問の進みを楼閣に登る階段にたとえて、先人の恩を思う。洋学は天然に基づき、物理を究め、人道を教える「天真の学」であるが、学ぶ者はなお望洋の嘆を免れないとして、同志と謀り、共立学校の制にならって学舎を設け、創立の年号をとって「慶応義塾」と仮に名づけたとする。今年四月に土木が成り、規律を定めたので、各地から集まって才を育て智を養い、将来国家のために役立つことを望み、協同して励むよう呼びかける。
冒頭部(原文より)
今ここに会社を立てて義塾を創め、同志諸子、相ともに講究切磋し、もって洋学に従事するや、事、もと私にあらず、広くこれを世に公にし、士民を問わずいやしくも志あるものをして来学せしめんを欲するなり。 そもそも洋学のよって興りしその始を尋ぬるに、昔、享保の頃、長崎の訳官某等、和蘭通市の便を計り、その国の書を読み習わんことを訴えしが、速やかに允可を賜りぬ。すなわち我が邦の人、横行の文字を読み習うるの始めなり。 その後、宝暦明和の頃、青木昆陽、命を奉じてその学を首唱し、また前野蘭化、桂川甫周、杉田斎等起り、専精してもって和蘭の学に志し、相ともに切磋し、おのおの得るところありといえども、洋学草昧の世なれば、書籍はなはだ乏しく、かつ、これを学ぶに師友なければ、遠く長崎の訳官についてその疑を叩たき、たまたま和蘭人に逢わばその実を質せり。
「慶応義塾の記」福沢諭吉(青空文庫)
末尾部(原文より)
ことし四月某日、土木、功を竣め、新たに舎の規律勧戒を立てり。こいねがわくは吾が党の士、千里笈を担うてここに集り、才を育し智を養い、進退必ず礼を守り、交際必ず誼を重じ、もって他日世になす者あらば、また国家のために小補なきにあらず。かつまた、後来この挙に傚い、ますますその結構を大にし、ますますその会社を盛んにし、もって後来の吾曹をみること、なお吾曹の先哲を慕うが如きを得ば、あにまた一大快事ならずや。ああ吾が党の士、協同勉励してその功を奏せよ。
「慶応義塾の記」福沢諭吉(青空文庫)
原文を読む
原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。