交尾(梶井基次郎)のあらすじ・登場人物
夜の白猫と瀬の河鹿
- 文字数
- 5,765字
- 読了目安
- 約12分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
この作品について
梶井基次郎が1931年(昭和6年)1月の「作品」に発表した短編で、「その一」「その二」の二つの小品から成る。「その一」では、病のために夜眠れない「私」が、町の家々の朽ちかけた物干し場に出て、露地で組み合う二匹の白猫と、そこへ近づいてくる夜警の様子を見下ろす。「その二」では、渓流の瀬に身をひそめて河鹿を観察する「私」が、雄が雌のもとへ鳴きながら水を渡ってゆく姿を見つめる。都会の夜の物干しと山あいの清流という対照的な場所で、生き物の求愛の姿を息を詰めて見守る観察が、透明な描写でつづられる。
あらすじ
その一。病で夜になると体が火照り、眠れなくなる「私」は、妄想から逃れるために家の物干し場に出る。家々がぎっしり建て込んだ町では、魚屋の力ない咳が聞こえ、往来を我がもの顔に猫が歩いている。ふと見ると、露地で二匹の白猫が寝転んで組み合い、抱き合ったまま動かなくなる。その艶めかしさに息が詰まる思いでいると、昼は葬儀屋をしている夜警が杖を鳴らしながら近づいてくる。猫がどうするか見届けたくて、「私」はいつものように家へ入らずにいる。夜警は立ち止まって猫を眺め、杖を猫の間近でトンと突くと、二匹はたちまち放射線のように逃げ去り、夜警は物干しの「私」に気づかないまま去っていく。
その二。「私」は渓の瀬で河鹿をよく見ようと思い立つ。瀬のきわまで一気に進んで石のように動かずにいると、河鹿はやがて顔を出し、中断していた求愛を再開する。以前、河鹿を捕まえて桶で観察しようとしたが、慌てて水に跳び込む姿しか見られなかった。ある日、河鹿の合唱が瀬をどよもすなか、「私」は一匹の雄と、受け答えをする雌を見つける。雄はひたむきに鳴き続けたあと、するすると石を下り、「ギョ・ギョ・ギョ・ギョ」と鳴きながら水を渡って雌のもとへ泳いでいく。その可憐さに「私」はすっかり心を打たれ、世にも美しいものを見た思いで、しばらく河鹿の声のなかに身を浸す。
登場人物
- 私 病のために夜眠れず、物干し場や渓の瀬で生き物を見つめる語り手
- 夜警 昼は葬儀屋をしている陰気な男。夜の露地を杖を鳴らして見回る
冒頭部(原文より)
その一 星空を見上げると、音もしないで何匹も蝙蝠が飛んでいる。その姿は見えないが、瞬間瞬間光を消す星の工合から、気味の悪い畜類の飛んでいるのが感じられるのである。 人びとは寐静まっている。――私の立っているのは、半ば朽ちかけた、家の物干し場だ。ここからは家の裏横手の露路を見通すことが出来る。近所は、港に舫った無数の廻船のように、ただぎっしりと建て詰んだ家の、同じように朽ちかけた物干しばかりである。私はかつて独逸のペッヒシュタインという画家の「市に嘆けるクリスト」という画の刷り物を見たことがあるが、それは巨大な工場地帯の裏地のようなところで跪いて祈っているキリストの絵像であった。その連想から、私は自分の今出ている物干しがなんとなくそうしたゲッセマネのような気がしないでもない。しかし私はキリストではない。夜中になって来ると病気の私の身体は火照り出し、そして眼が冴える。ただ妄想という怪獣の餌食となりたくないためばかりに、私はここへ逃げ出して来て、少々身体には毒な夜露に打たれるのである。
「交尾」梶井基次郎(青空文庫)
末尾部(原文より)
私の眼の下にはこのとき一匹の雄がいた。そして彼もやはりその合唱の波のなかに漂いながら、ある間をおいては彼の喉を震わせていたのである。私は彼の相手がどこにいるのだろうかと捜して見た。流れを距てて一尺ばかり離れた石の蔭におとなしく控えている一匹がいる。どうもそれらしい。しばらく見ているうちに私はそれが雄の鳴くたびに「ゲ・ゲ」と満足気な声で受け答えをするのを発見した。そのうちに雄の声はだんだん冴えて来た。ひたむきに鳴くのが私の胸へも応えるほどになって来た。しばらくすると彼はまた突然に合唱のリズムを紊しはじめた。鳴く間がたんだん迫って来たのである。もちろん雌は「ゲ・ゲ」とうなずいている。しかしこれは声の振わないせいか雄の熱情的なのに比べて少し呑気に見える。しかし今に何事かなくてはならない。私はその時の来るのを待っていた。すると、案の定、雄はその烈しい鳴き方をひたと鳴きやめたと思う間に、するすると石を下りて水を渡りはじめた。このときその可憐な風情ほど私を感動させたものはなかった。彼が水の上を雌に求め寄ってゆく、それは人間の子供が母親を見つけて甘え泣きに泣きながら駆け寄って行くときと少しも変ったことはない。「ギョ・ギョ・ギョ・ギョ」と鳴きながら泳いで行くのである。こんな一心にも可憐な求愛があるものだろうか。それには私はすっかりあてられてしまったのである。 もちろん彼は幸福に雌の足下へ到り着いた。それから彼らは交尾した。爽やかな清流のなかで。――しかし少なくとも彼らの痴情の美しさは水を渡るときの可憐さに如かなかった。世にも美しいものを見た気持で、しばらく私は瀬を揺がす河鹿の声のなかに没していた。
「交尾」梶井基次郎(青空文庫)
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