泥濘(梶井基次郎)のあらすじ・登場人物
雪どけの町をさまよう一日
- 心理
- 文字数
- 6,906字
- 読了目安
- 約14分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 東京都
この作品について
1925(大正14)年7月、同人誌「青空」に発表された梶井基次郎の短編。東京帝国大学に入学して上京した後の作で、雪どけのぬかるむ東京を舞台にする。書いていたものを病的な形で失敗に終わらせ、気力を失った「自分」が、家から届いた為替を受け取りに本郷へ出かけ、銀座を経て郊外の下宿へ帰るまでの一日を描く。銀行の窓口や散髪屋、古本屋などで起こるささいな出来事に一つひとつ心を乱される主人公の内面が、細かく追われていく。
あらすじ
雪の降ったあとのある日、郊外に住む「自分」は、家から届いた為替を金に替えるため本郷へ出かける。根をつめて書いたものを病的な形で失敗に終わらせて以来、自分は何をしても中途半端になり、火事が出れば自分の捨てた吸殻のせいにされはしないかと怯えるような妄想に悩まされていた。銀行では小僧の視線を気にして顔を赤くし、石鹸を洗い落とさない散髪屋に何も言えず、友人と話していても相手が遠く感じられる。古本屋を回っても吝嗇になって買い切れず、ようやく決めた古雑誌はもう見つからない。銀座の食堂で麦酒を飲み、唐物屋で高価な石鹸を買ってしまった自分は、ゆめうつつでしているからだと叱った母を思い、「奎吉!」と自分の名を呼んでみる。かつて酔って帰った自分を叱った母の口調を友人が真似て聞かせて以来、その名を口にすると母の顔が浮かぶのだった。ところが今度は、呼び出された顔がいつか不吉を司る何者かに代わり、自分はぞっとする。夜更けの坂道を疲れ切って歩くうち、街燈の作る影のなかに一つだけ変わらない月の影を見つけ、それが親しく思える。雪の風景を照らす月光の中で影を見つめるうち、影は生々しい自分自身となって歩き出し、こちらの自分は月のような位置からそれを眺めていた。銭湯から流れる湯気の匂いに我に返った自分は、下宿へと暗い路を入っていく。
登場人物
- 自分(奎吉) 郊外に住む学生。書くことに失敗して心の平衡を失っている
- 友人 本郷に下宿する友人。引っ込んでいるのがいけないと忠告する
- 母 郷里の母。自分の失敗を「ゆめうつつで遣ってるからじゃ」と叱った
冒頭部(原文より)
一 それはある日の事だった。―― 待っていた為替が家から届いたので、それを金に替えかたがた本郷へ出ることにした。 雪の降ったあとで郊外に住んでいる自分にはその雪解けが億劫なのであったが、金は待っていた金なので関わずに出かけることにした。 それより前、自分はかなり根をつめて書いたものを失敗に終わらしていた。失敗はとにかくとして、その失敗の仕方の変に病的だったことがその後の生活にまでよくない影響を与えていた。そんな訳で自分は何かに気持の転換を求めていた。金がなくなっていたので出歩くにも出歩けなかった。そこへ家から送ってくれた為替にどうしたことか不備なところがあって、それを送り返し、自分はなおさら不愉快になって、四日ほど待っていたのだった。その日に着いた為替はその二度目の為替であった。
「泥濘」梶井基次郎(青空文庫)
末尾部(原文より)
影の中に生き物らしい気配があらわれて来た。何を思っているのか確かに何かを思っている――影だと思っていたものは、それは、生なましい自分であった! 自分が歩いてゆく! そしてこちらの自分は月のような位置からその自分を眺めている。地面はなにか玻璃を張ったような透明で、自分は軽い眩暈を感じる。 「あれはどこへ歩いてゆくのだろう」と漠とした不安が自分に起りはじめた。…… 路に沿うた竹藪の前の小溝へは銭湯で落す湯が流れて来ている。湯気が屏風のように立騰っていて匂いが鼻を撲った――自分はしみじみした自分に帰っていた。風呂屋の隣りの天ぷら屋はまだ起きていた。自分は自分の下宿の方へ暗い路を入って行った。
「泥濘」梶井基次郎(青空文庫)
原文を読む
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