淫売婦(葉山嘉樹)のあらすじ・登場人物
私は淫売婦の代りに殉教者を見た
- 社会
- 心理
- 文字数
- 13,448字
- 読了目安
- 約27分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 神奈川県
この作品について
1925年(大正14年)、「文芸戦線」に発表された葉山嘉樹の出世作。名古屋刑務所での獄中体験のなかで書かれ、「セメント樽の中の手紙」「海に生くる人々」と並ぶ代表作に数えられる。横浜の波止場を菜っ葉服でぶらついていた若い船員が、ならず者に呼び止められ、有り金と引き換えに連れ込まれた薄暗い倉庫の一室——そこには、病み衰えた裸の女が横たわっていた。搾取される者が搾取される者を支えるほかない社会の底を、事実とも幻想ともつかぬ回想の文体で描き出した中編である。
あらすじ
十年ほど前の記憶——それが事実だったのか幻想だったのか、「私」は今も言い切れない。欧州航路から帰ったばかりの若い船員だった「私」は、菜っ葉服のまま横浜のメリケン波止場をぶらついていた。夕暮れ、蛞蝓のような顔をした男に呼び止められる。「若え者がするだけの楽しみを、二分で買う気はねえかい」。仲間の二人に腕を掴まれ、有り金を巻き上げられて、「私」は南京町の奥の、倉庫に貼りついたような歪んだ階段を昇らされた。黴と饐えた臭いの立ちこめる、がらんとした一室。ビール箱の蔭に、二十二三の女が全裸のまま仰向けに横たわっていた。骨と皮ばかりに痩せ、汚物と血で髪を固め、それでも目だけは開いて「私」を見ている。「好きなようにしたがいいや」と男は階下へ消えた。義憤と欲望のあいだで揺れながら、「私」は女に声をかける。「あまりひどいことをしないでね」。助け出そうと男を殴り倒した「私」に、女は思いがけないことを告げた——この人たちが今まで私を養ってくれたのだ、と。夜更け、「私」はもう一度その部屋を訪ねる。男もまたヨロケを病む労働者であり、彼らは搾り取られた残り滓どうしで身を寄せ合って生きているのだった。浴衣をかけられて眠る女を前に、「私」は自分の思い違いを知る。
登場人物
- 私(民平) 語り手。欧州航路から帰ったばかりの若い船員で、菜っ葉服のまま波止場をぶらついていた
- 女 倉庫の一室に横たわる二十二三の女。肺結核と癌に冒され、死を待っている
- 蛞蝓 「私」を連れ込んだ男。ヨロケを病む元労働者で、仲間とともに女を支えている
冒頭部(原文より)
一 若し私が、次に書きつけて行くようなことを、誰かから、「それは事実かい、それとも幻想かい、一体どっちなんだい?」と訊ねられるとしても、私はその中のどちらだとも云い切る訳に行かない。私は自分でも此問題、此事件を、十年の間と云うもの、或時はフト「俺も怖ろしいことの体験者だなあ」と思ったり、又或時は「だが、此事はほんの俺の幻想に過ぎないんじゃないか、ただそんな風な気がすると云う丈けのことじゃないか、でなけりゃ……」とこんな風に、私にもそれがどっちだか分らずに、この妙な思い出は益々濃厚に精細に、私の一部に彫りつけられる。
「淫売婦」葉山嘉樹(青空文庫)
末尾部(原文より)
私は淫売婦の代りに殉教者を見た。 彼女は、被搾取階級の一切の運命を象徴しているように見えた。 私は眼に涙が一杯溜った。私は音のしないようにソーッと歩いて、扉の所に立っていた蛞蝓へ、一円渡した。渡す時に私は蛞蝓の萎びた手を力一杯握りしめた。 そして表へ出た。階段の第一段を下るとき、溜っていた涙が私の眼から、ポトリとこぼれた。
「淫売婦」葉山嘉樹(青空文庫)
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