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日本文化私観(坂口安吾)のあらすじ・登場人物

生活から問い直す日本の美

坂口安吾 1942年(昭和17年)3月 「現代文学」

文字数
21,820字
読了目安
約44分
表記
新字新仮名

この作品について

1942年、「現代文学」に発表された坂口安吾の評論。ブルーノ・タウトの称える桂離宮も見たことがなく、古代文化にも詳しくないという告白から、「日本的」とは何かを問い始める。名所や古い様式を尊ぶ眼差しの外には、ネオンの街や日々の欲求を抱えて生きる人々がいる。自分の経験に立ち返って語る文章は、伝統、住まい、自由、美へと話題を動かしながら、文化を実際の生活から考え直そうとする。小菅刑務所、ドライアイス工場、駆逐艦に心を惹かれた記憶から、必要に応じて形づくられたものの美しさへ進む議論が印象的。その視点は、文学にとって何を書く必要があるかという問いにもつながっている。挑発的な言い切りだけでなく、自分自身の暮らしの不自由さや孤独を語る箇所にも、安吾の思考の手触りがある。文化の価値を誰の、どのような生活に照らして考えるのか、読者にも問いを開く一編。

あらすじ

僕は日本の古代文化についてほとんど知識を持っていない。タウトの絶賛する桂離宮も見たことがない——冒頭でそう明かした安吾は、外国人が発見してくれる「日本的なるもの」への追従を退け、伝統だの国民性だのと呼ばれるものが、いかに実際の生活から遊離しているかを突いていく。京都や奈良の古寺が焼けても日本の伝統は亡びない。なぜなら伝統は建物にではなく、日本人の生活自体に宿るからだ。俗悪と蔑まれるネオン・サインや猥雑な盛り場にこそ、偽りのない生活の欲求がある。安吾が美しいと感じるのは、小菅刑務所とドライアイス工場と駆逐艦——美を目的とせず、必要にのみ従って造られたものたちである。見た目のスマートさだけでは真の美は生まれない。すべては実質の問題だ。「必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい」。バラックの屋根に夕陽が落ち、ネオン・サインが光るところに我々の実際の生活が魂を下ろしている限り、それが美しくなくて何であろうか、と結ばれる。

冒頭部(原文より)

僕は日本の古代文化に就て殆んど知識を持っていない。ブルーノ・タウトが絶讃する桂離宮も見たことがなく、玉泉も大雅堂も竹田も鉄斎も知らないのである。況んや、秦蔵六だの竹源斎師など名前すら聞いたことがなく、第一、めったに旅行することがないので、祖国のあの町この村も、風俗も、山河も知らないのだ。

「日本文化私観」坂口安吾(青空文庫)

末尾部(原文より)

法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。武蔵野の静かな落日はなくなったが累々たるバラックの屋根に夕陽が落ち、埃のために晴れた日も曇り、月夜の景観に代ってネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下している限り、これが美しくなくて、何であろうか。

「日本文化私観」坂口安吾(青空文庫)

名文

法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。

戦時中に書かれた日本文化論の、最も挑発的な一節。古い建物を崇める伝統観を退け、生活の必要から生まれるものにこそ文化の本質があると説く。

原文を読む

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