肉体自体が思考する(坂口安吾)のあらすじ・登場人物
肉体が考え語りはじめる
- 文字数
- 1,234字
- 読了目安
- 約2分
- 表記
- 新字旧仮名
この作品について
1946年(昭和21年)11月18日の「読売新聞」に載った、1200字余りの短い文芸評論。サルトルの短篇「水いらず」を手がかりに、精神が肉体について考えるのではなく、肉体自体が考え語る立場から小説を書く必要があるという、安吾の文学観を述べる。同じ時期の織田作之助への呼びかけも含む。
あらすじ
(内容の要旨)安吾はサルトルをよくは知らないとことわったうえで、その小説の巧さを認める。「水いらず」のリュリュは、不能の夫と喧嘩別れして他の男とホテルに泊まるが、結局夫のもとへ帰る。この作品には倫理がひとことも説かれず、リュリュの肉体が夫の肉体を変な風に愛している、その肉体自体の言葉が語られているだけだ。これまでの倫理は精神が肉体について考えてきたもので、肉体自体が考え語りうるという立場を人々は忘れていた。一見理知がないように見えるこの書き方は、実は理知以上に知的で革命的だと安吾は言う。自分も、精神の思考を離れて肉体が何を語るかを小説にしなければならないと考えていた。織田作之助も同じことを狙っているように思え、モラルはこの後に来るものだから、そこにモラルがないのは当然である。最後に、この道は安易であってはならないと織田に呼びかけて結ぶ。
冒頭部(原文より)
私はサルトルについてはよく知らない。実存は無動機、不合理、醜怪なものだといふ。人間はかゝる一つの実存として漂ひ流れ、不安恐怖の深淵にあるといふ。 「我々は機械的人間でもなければ、悪魔に憑かれたものでもない。もつと悪いことには、我々は自由なのである。」実際、自由といふ奴は重苦しい負担だ、行為の自由といふ奴を正視すれば、人間はその汚さにあいそのつきるのは当然だ。こゝまでは万人の思想だけれども、サルトルは救ひを「無」にもとめる。これはサルトルの賭だ。かういふ思想は思想自体が賭博なので、彼自身の一生をはる。サルトルの魅力は思想自体の賭博性にもあるのだと私は思ふ。
「肉体自体が思考する」坂口安吾(青空文庫)
末尾部(原文より)
織田作之助君なども、明確に思考する肉体自体といふことを狙つてゐるやうに思はれる。だから、そこにはモラルがない。一見、知性がない。モラルといふものは、この後に来なければならないのだから、それ自体にモラルがないのは当然で、背徳だの、悪徳だのといふ自意識もいらない。思考する肉体自体に、さういふものはないからだ。一見知性的でないといふことほど、この場合、知的な意味はない。知性の後のものだから。 これからの文学が、思考する肉体自体の言葉の発見にかゝつてゐるといふこと、この真実の発見によつて始めて新たな、真実なモラルがありうることを私は確信するのであるが、この道は安易であつてはならぬ。織田君、安易であつてはならぬ。
「肉体自体が思考する」坂口安吾(青空文庫)
原文を読む
原文は青空文庫で公開されています(アプリからも同じ本文をダウンロードして縦書きで読めます)。