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女占師の前にて(坂口安吾)のあらすじ・登場人物

表情と均斉の意志をめぐる随想

坂口安吾 1938年(昭和13年)1月 「文学界」

文字数
15,084字
読了目安
約30分
表記
新字旧仮名
種別
随筆

この作品について

1938年1月、『文学界』に載った随筆。冒頭で「素朴な童話」とも「落語」とも読んでよいと断ったうえで、映画「生きてゐるモレア」で女占師の敵意の視線を受け流す男の無表情から、自分の占いの記憶、黄檗山万福寺の伽藍の「均斉の意志」、芥川龍之介と牧野信一の自殺、ジイドとワイルドの対比へと連想をひろげる。京都に放浪の身を寄せていた頃の安吾の思索が、気ままな語り口で綴られる。

あらすじ

牧野信一の家で指紋占いを見せなかった牧野のことを思い出し、安吾は占師の前での自分の振る舞いを語る。京都で見た映画「生きてゐるモレア」では、女占師が主人公の掌を見て敵意を示し、予言を口にせず立ち去るが、男は微動もしなかった。自分もその立場なら無表情でありえようが、内心の動揺との均衡の悪さに苦しむだろうと考える。中学生の頃、易者の妻に「色魔」と言われた記憶、京都深草から訪れる東福寺や黄檗山万福寺の伽藍に「均斉の意志」が狂人の危うさを孕んでいるように感じることから話はひろがる。芥川龍之介の自殺は知性の極北まで追いつめられた悲劇的なもので、牧野信一の自殺はもっと感性的で死ななくてもよかったと分析する。さらにモーリス・シュバリエや江戸の戯作者、アンドレ・ジイドの「オスカア・ワイルドの思ひ出」を引きつつ、現実の表情をかわす術と文学の問題との違いを説き、自身の内面については「私の生涯の作品の後に発見していただく」と結ぶ。

冒頭部(原文より)

これは素朴な童話のつもりで読んでいただいても乃至は趣向 の足りない落語のつもりで読んでいただいてもかまひません  私はあるとき牧野信一の家で長谷川といふ指紋の占を業とする人に私の指紋を見せたことがありました。私は彼のもとめに応じて私の左右の掌を交互に彼の面前に差出したまででありますが、君のもともとめられた牧野信一は神経的に眉を寄せ、いくらか顫えを帯びた小声で僕はさういふことは嫌ひなんだと誰にとなく呟いたりしたのち、結局座を立つて便所へ行つたりなど細工して、たうとう彼だけは見せなかつたやうでした。感性だけで生きてゐた牧野信一は予言のもつ不吉なものを捩ぢ伏せることに不得手で、赤裸な姿を看破せられる不安にも堪えがたかつたのでありませう。

「女占師の前にて」坂口安吾(青空文庫)

末尾部(原文より)

 結局私は他人の表情の棚下しをして、自身の表情に就てはとんと語りたがらぬ風でありましたが、それも亦私の生涯の作品の後に、自由に発見していただく以外に仕方がないと思つてゐます。余言ついでにあはせてテーブルスピーチの要領で、かういふ便利な言ひまはしを教へてくれたアンドレ・ジイド氏に末筆ながら敬意を表したいと思ひます。そしてまたこの言種が江戸の戯作者の亜流にすぎないといふ御叱言と失笑がでるなら、それは新年の初笑ひのために作者が甘んじてその光栄を担つたところの余興であると思つていただかねばなりません。そしてまたこの言種が――もはや何派の亜流であるかは恐らく誰も気をまはしたくないでせうね。御退屈さま。

「女占師の前にて」坂口安吾(青空文庫)

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