戦後文章論(坂口安吾)のあらすじ・登場人物
漫画に学ぶ文章の骨法
- 文字数
- 7,728字
- 読了目安
- 約15分
- 表記
- 新字新仮名
この作品について
1951年9月の「新潮」に載った文章論。「生きている文章はめったにない」という立場から、漫画家や碁将棋欄の観戦記者の文章が戦後に際立って巧妙になったと評価する。安吾は自分の文章を「講談の弟子」と評されたことを手がかりに、現実に使われる言葉で書くことや、物の本質を正確につかむ「骨法」、そして文章が内容を限定しない幅を持つべきことを論じ、大岡昇平、三島由紀夫、安岡章太郎らの文章にも触れる。
あらすじ
言葉は生きているが、生きている文章はめったにないと安吾は書き出す。「ギョッ」「モジモジ」などの流行語を生んだフクチャン漫画の横山隆一を例に、漫画は絵よりも文学に近く、漫画家は文章がうまいと述べる。サザエさんは思いつきが卓抜だが、絵にムダがあるように文章にもムダがあり、物の本質を正確にムダ少なくつかむという骨法が長老連に及ばないとする。終戦後に際立って巧妙になった文章として、新聞の碁将棋欄の観戦記を挙げ、筆者は木村にも升田にも同情せず、ただ真実を書くから生きていると言う。自分の文章が講談の弟子と評されたことにも触れ、実際には狂言に学ぶところが多く、「習い覚えたペルシャ語」のような現代の文章がイヤで、日常の言葉で書き始めたと述べる。仏教の倶舎論を日常語でやさしく説いた長老の話を引き、どんなことも日常の言葉で言えると結論づける。一方、大岡昇平や三島由紀夫の文章は行き届いて濃すぎると批評し、文章が消えてなくなるような、内容を限定しない幅が必要だと主張する。新鮮な文章の例には安岡章太郎を挙げるが、そこにも限定の危険を指摘する。
冒頭部(原文より)
言葉は生きているものだ。しかし、生きている文章はめったにありません。ふだん話をするときの言葉で文章を書いても、それだけで文章が生きてくるワケには参らないが、話す言葉の方に生きた血が通い易いのは当然でしょう。会話にも話術というものがあるのだから、文章にも話術が必要なのは当り前。話をするように書いただけですむ筈はありません。 「ギョッ」という流行語のモトはフクチャン漫画だろう。横山隆一の発明品である。彼は漫画の中へギョッだの、モジモジだの、ソワソワだのという言葉を絵と同格にとりいれるという珍法を編みだした。
「戦後文章論」坂口安吾(青空文庫)
末尾部(原文より)
内容を限定する危険のある文章はなるべく避けなければいけますまい。どんな人間同士の複雑な関係や物語にも間に合う幅が必要ですよ。 大岡三島御両所の文章は批評家にわからぬような文章や小説ではないね。甚だしく多くの人に理解される可能性を含んでいますよ。 新聞の連載漫画や碁将棋の観戦記に職人のイノチがこもって今日的に生き生きしている目覚しさを、御両所は誰よりもお分りになる筈であろう。批評など相手にするのは愚ですよ。バカになることですよ。
「戦後文章論」坂口安吾(青空文庫)
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