思想と文学(坂口安吾)のあらすじ・登場人物
虚無の文学と思想の文学
- 文字数
- 1,036字
- 読了目安
- 約2分
- 表記
- 新字新仮名
この作品について
人間通と虚無を主体とする文学と、人生を工夫して行く思想の文学とを対比し、思想の幼稚さを怖れてはならないと説く短い評論。伊勢物語・芥川龍之介・太宰治といった短篇作家の型を引きながら、日本文学に思想性の文学が育たなかった理由を指摘する。初出は「読売新聞」1947(昭和22)年12月8日。
あらすじ
作者は、人間通と虚無を主体にエスプリで構成される文学を「人間通の文学」と呼び、伊勢物語、芥川龍之介、太宰治などがその型で、作者は概して短篇作家だという。虚無は思想ではなく、人間性に直属する原本的なもので、思想はよりよく人生を工夫していこうとするものである。五十年の人生の工夫は、不変の人間性から見れば幼稚で笑止千万だが、悟りすまして冷然と人生を白眼視しても、救われも偉くもならない。思想の文学は人生を発明工夫して行く、いわば行動の文学であり、時代や社会とのつながりを離れてはありえない。それゆえ、思想によって新しくなる代わりに、思想によって老い、時代とともに亡びる性質ももつ。だが、その幼稚な悪アガキこそが「生きる」ことの真相でもあり、冷然白眼視の悟り屋よりも生きている。この幼稚を怖れてはならず、日本文学は古来、人生を白眼視する悟り屋に敗北してきたため、思想性の文学が起こらなかった。問題は長篇という長さではなく、思想性、生き方なのだと作者は述べる。
冒頭部(原文より)
人間通の文学というものがある。人間通と虚無とを主体に、エスプリによって構成された文学だ。日本では、伊勢物語、芥川龍之介、太宰治などがそうで、この型の作者は概して短篇作家である。 虚無というものは思想ではない。人間性に直属するもの、いわば精神的人間性というような原本的なものだろうと私は思う。 思想というものは別物で、これは原本的なものではない。よりよく人生を構成発案して行こうとするもので、やってみたって、タカが知れている、そう言ってしまえば、まことに、その通り、タカが知れてはいる。無限の人間の時間にくらべれば、五十年の人生は、いつもタカが知れているのである。
「思想と文学」坂口安吾(青空文庫)
末尾部(原文より)
つまり人生五十年のよりよき工夫が五十年と共に死滅する宿命と同じことで、要するに人間が生きるということは、このように亡びる事実にも外ならぬ。それ故に又、かゝる工夫の悪アガキが幼稚であっても、冷然白眼視の悟り屋よりも、生きているのだ。不滅の人間一般にくらべれば、五十年の人間は、いつも幼稚でバカバカしい。それが「生きる」ことの真相でもある。 この幼稚を怖れてはならぬ。思想は元々幼稚にきまっていることを知らなければならないものだ。さもなければ、すぐれた思想は起らない。日本文学は古来人生を白眼視の悟り屋に敗北しているから思想性の文学が起らなかった。 長篇小説という長さの問題ではなく思想性、生き方の問題である。
「思想と文学」坂口安吾(青空文庫)
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