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処女作前後の思ひ出(坂口安吾)のあらすじ・登場人物

僧になり損ねた文学青年

坂口安吾 1946年(昭和21年)3月 「早稲田文学」

文字数
5,990字
読了目安
約12分
表記
新字旧仮名
種別
随筆

この作品について

坂口安吾が、作家になるまでの歩みを自分で振り返った回想。二十歳で僧を志しながら一年半ほどで幻滅したこと、アテネ・フランセの仲間と同人誌「言葉」を出し、のちに「青い馬」と改めて岩波書店から出したこと、芥川龍之介の甥・葛巻義敏と芥川家の二階で雑誌を編んだ日々などが語られる。三作目で文藝春秋の新人号に呼ばれるまでの経緯や、牧野信一との出会いも含み、読書の遍歴を通して「影響を受けた先達のいない」自分の性分を見つめる。1946年3月発表。

あらすじ

安吾はまず、二十の年に坊主になろうと考えたのは、内心では小説家になりたかったのに才能がないと諦めたせいだったと述べる。当時は谷崎潤一郎らを読んでは絶望を深め、左翼文学には魅力を覚えず、チェーホフの英訳を耽読した。仏教には一年半ほどで幻滅し、再び文学に戻って、落伍者の文学を志しフランス語を学びにアテネ・フランセへ通う。そこで十四五人の仲間と同人誌「言葉」を昭和五年に出し、二号で「青い馬」と改題して岩波書店から発売することになる。それを実現させたのは、芥川龍之介の甥で全集の出版にあたっていた葛巻義敏の我儘ともいえる執念だった。芥川家の二階の寝室で徹夜を重ね、翻訳を一夜で仕上げる日々のなか、安吾は葛巻の純粋さを師匠のように感じていた。二作目の「風博士」は牧野信一が文藝春秋で激賞し、三作目で新人号に書くことになる。短編三つで文士になったものの、自分には書くべき問題も自分自身もなかったと省み、先人に師事して没入できない性分のまま、愚かさを守り通すほかないと結ぶ。

冒頭部(原文より)

 私が二十の年に坊主にならうと考へたのは、何か悟りといふものがあつて、そこに到達すると精神の円熟を得て浮世の卑小さを忘れることができると発願したのであるが、実は歪められた発願であつて、内心は小説家になりたかつたのであり、それを諦めたところに宗教的な満足をもとめる心も育つたのであらうと思ふ。なぜ諦めたかと云へば、言ふまでもなく、才能がないと思つたからだ。  芸術は天才がなければ出来ないと私は考へてゐた。私はスポーツにはやゝ天分があつて、特にヂャムプは我流の跳び方だけでインターミドルに入賞したり、関東だけだつたら、投擲でもハードルなどでも勝てるし、野球や柔道も巧かつた。それに比べると芸術の天分など全然自信がなかつた。その上、いくらか天分があると思ふヂャンプでも同じ頃織田だの南部がインターミドルの花形で、彼らに比べると私はとても駄目だと思つてゐた。芸術などは国境すらもないもので、インターミドル一だの日本一だのといふことすら許されない絶対のものだと考へてゐたから(私は中学時代「絶対の探求」「文学の本質」いづれも同じ著者、その名を失念、を耽読した)とうてい自分の近づき難い世界だと諦めてゐたのである。

「処女作前後の思ひ出」坂口安吾(青空文庫)

末尾部(原文より)

 だから私の一生は誰から影響を受けたといふやうな素性の正しいものはなく、そのくせ軽率な模倣癖は驚くほど旺盛であるから、その程度の影響は雑多無数でキリがない。私の模倣癖の甚しさに就て一例をあげれば、私はたとへば山路愛山の徳川家康に感心したが、愛山とか徳富蘇峰とか、かういふ独創的な歴史家の歴史を読むと、私はそれに限定され、それ以上にハミ出すことができなくなつて、歴史小説が書けなくなつてしまふのだつた。だから私は歴史小説を書くために調べ物をするときは、二流三流の独創性の何もない歴史家の本を漁らなければならないのだ。  このことは小説に就ても同じことで、私はすぐれた作品を読むと、それに師事したり、没入して読むといふことができず、敵意をいだき、模倣を怖れて、投げすて、目をとぢてしまふのだつた。すくなくとも、それに類した傾向を如何ともすることができない。之は私の性分で、愚な性分であるけれども、今は之を守り通すことによつて、その愚かさを完成する以外に仕方がなからうと思ふ。

「処女作前後の思ひ出」坂口安吾(青空文庫)

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