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侏儒の言葉(芥川龍之介)のあらすじ・登場人物

皮肉と知性が光る警句集

芥川龍之介 1923年(大正12年)1月 「文藝春秋」

文字数
35,597字
読了目安
約1時間11分
表記
新字新仮名
種別
随筆

この作品について

芥川龍之介が1923年(大正12年)から雑誌「文藝春秋」に連載した、警句・箴言の集成。「侏儒(しゅじゅ)」とはこびとのこと。人生、道徳、恋愛、芸術、宗教、政治、そして自分自身について――芥川は、鋭くも皮肉にみちた短い断章を次々と書きつけていく。常識をひとひねりし、人間の弱さや世の欺瞞をあばくその一句一句には、晩年へと向かう芥川の透徹した知性と、深まりゆく不安とがにじむ。定まった筋を持たず、思想の断片が幾すじもの蔓草のように伸びていく、芥川の内面を映す箴言集である。

あらすじ

「侏儒の言葉」は、芥川龍之介が晩年に書きついだ、警句・箴言の集成である。ひとつの主題を論じるのではなく、人生・道徳・恋愛・芸術・宗教・政治・処世、そして自分自身について、鋭く研ぎ澄まされた短い断章が、次から次へと連ねられていく。「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危険である」――そんなふうに、芥川は世間の常識をひとひねりし、通念の裏にひそむ矛盾や、人間の弱さ、世の欺瞞を、皮肉と諧謔をこめて容赦なくあばいていく。ときに冷徹に、ときに自嘲的に語られる断章は、題材も視点もさまざまである。「侏儒の言葉」は必ずしも作者の思想を伝えるものではなく、その思想の変化を折々に窺わせる――一本の草よりも一すじの蔓草のように、幾すじにも伸びていくこれらの断章は、読み手に多様な問いを投げかける。

冒頭部(原文より)

 「侏儒の言葉」は必しもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々窺わせるのに過ぎぬものである。一本の草よりも一すじの蔓草、――しかもその蔓草は幾すじも蔓を伸ばしているかも知れない。

「侏儒の言葉」芥川龍之介(青空文庫)

末尾部(原文より)

 わたしは勿論失敗だった。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであろう。一本の木の枯れることは極めて区々たる問題に過ぎない。無数の種子を宿している、大きい地面が存在する限りは。    或夜の感想  眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違いあるまい。

「侏儒の言葉」芥川龍之介(青空文庫)

名文

人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危険である。

箴言集の一節。人生の軽さと重さのどちらにも与しない身構えを、マッチ一箱の比喩で言い当てた、芥川晩年の醒めた警句。

人生は地獄よりも地獄的である。

「地獄」と題された断章の書き出し。地獄の苦しみには一定の法則があるが、人生の苦しみはそれほど単純ではないと続き、人生の不可解さを皮肉る。

自由は山巓の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることは出来ない。

「自由」と題された断章の一つ。自由を高山の薄い空気にたとえ、それを求めながら耐えきれない人間の弱さを鋭く突く警句。

輿論は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。たといピストルを用うる代りに新聞の記事を用いたとしても。

「輿論」と題された断章。世論が人を裁くとき、それは私的な制裁であり娯楽でもあると言い切る。今日のネット上の炎上にも通じる鋭さで引かれ続けている。

天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。同時代は常にこの一歩の千里であることを理解しない。後代は又この千里の一歩であることに盲目である。

「天才」と題された断章。天才と凡人の差はわずか一歩だが、同時代の人はその隔たりの大きさを、後世の人はその近さを見誤るという逆説。

我我を恋愛から救うものは理性よりも寧ろ多忙である。

「多忙」と題された断章。恋愛を成就させるには何より暇が必要で、古来の恋人たちは皆閑人だったと続く、軽妙な逆説。

あらゆる神の属性中、最も神の為に同情するのは神には自殺の出来ないことである。

「神」と題された一章。全能であるはずの神にできないことを逆手に取り、神への同情という意表を突く形で、生と死をめぐる芥川の屈折した思いをのぞかせる警句。

道徳の与えたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与える損害は完全なる良心の麻痺である。

「修身」の章の一節。道徳を便利な約束事として突き放し、その恩恵と損害とを天秤にかけて、道徳に寄りかかる者の良心の鈍りを鋭く突く。

武器それ自身は恐れるに足りない。恐れるのは武人の技倆である。正義それ自身も恐れるに足りない。恐れるのは煽動家の雄弁である。

恐れるべきは道具そのものではなく、それを扱う人の技量と言葉だとする警句。正義の名のもとに人を動かす弁舌の危うさを言い当てている。

わたしは良心を持っていない。わたしの持っているのは神経ばかりである。

「わたし」と題された自画像めいた一章。良心の代わりに神経だけがあるという言い方に、過敏な感受性を抱えて生きた芥川の自己認識がにじむ。

人生は落丁の多い書物に似ている。一部を成すとは称し難い。しかし兎に角一部を成している。

「人生は一箱のマッチに似ている」に続けて置かれた、人生をめぐる警句の一つ。欠けた頁の多い本にたとえて、不完全なまま一つのまとまりを成す人の一生を言い表す。

天才の一面は明らかに醜聞を起し得る才能である。

天才を讃える通念を裏返し、世間を騒がせる力もまた才能の一部だと言い切る警句。醜聞と才能とが隣り合う文壇の空気を皮肉に映す。

他人を弁護するよりも自己を弁護するのは困難である。疑うものは弁護士を見よ。

遺稿として発表された後半部の「弁護」の一章。他人の弁護を職業とする者でさえ自分のこととなるとうまくいかない、という皮肉で人間の弱さを突く。

人間的な、余りに人間的なものは大抵は確かに動物的である。

ニーチェの著書名『人間的な、あまりに人間的な』をもじった警句。人間らしさとして肯定されがちなものの多くが、実は動物の本能に根ざしていると突き放す。

恋愛は唯性慾の詩的表現を受けたものである。少くとも詩的表現を受けない性慾は恋愛と呼ぶに価いしない。

「恋愛」の章の一節。恋愛を性欲に還元する冷ややかな定義に見えて、詩的表現こそが恋愛を恋愛たらしめるとする、芥川らしい両面の見方が示される。

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