蒼穹(梶井基次郎)のあらすじ・登場人物
湧いては消える雲を見つめて
- 文字数
- 2,350字
- 読了目安
- 約5分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
この作品について
梶井基次郎が1928年(昭和3年)3月号の同人誌「文芸都市」に発表した、原稿用紙数枚ほどの短い作品。晩春の午後、山あいの村の街道沿いの土堤で日を浴びている「私」が、平地の向こうに横たわる雲や、二つの渓が落ち合う眺めを見渡すところから始まる。杉の花粉の煙、若葉の落ち着き、椎の芽吹きといった季節の細部が重ねられたのち、「私」の眼は杉山の上から湧いては消える雲へ吸い込まれていく。風景の観察が、ある闇夜の記憶と結びつき、見る者の感覚そのものを揺さぶっていく過程を、短いなかに凝縮して描いた作品である。
あらすじ
晩春の午後、「私」は山あいの村の土堤で日を浴びながら、平地の果ての雑木山に横たわる巨きな雲を眺めている。藤紫の陰翳を持つ雲は、うららかな野山の安逸を悲しんでいるかのように見える。眼を移すと、二つの渓が落ち合い、山襞が十二単衣のように重なり、杉林はすでに花粉を飛ばし終えて落ち着いた色になっていた。
やがて「私」の眼は、渓を隔てた杉山の上から絶えず湧いてくる淡い雲に吸い込まれていく。雲は生成と消滅を繰り返しながら旋回し、見つめるうちに恐怖に似た感情が胸に昂まってくる。そのとき「私」は、雲が杉山のすぐ上からではなく、かなり離れた空中で初めて姿をあらわすことに気づく。空に見えない山でもあるのかと思ったとき、提灯も持たずに闇の街道を歩いた夜の記憶がよみがえる。一軒家の灯のなかに現れた人影が、光を失いながら闇へ消えていくのを見送り、「何処」というもののない闇に戦慄した夜だった。その瞬間「私」は悟る。雲が湧いては消える空に満ちているのは、白日の闇、虚無なのだと。濃い藍色の空は、見れば見るほど闇としか感じられなくなる。
登場人物
- 私 晩春の山あいの村で、土堤に坐って雲と渓の眺めを見つめる語り手
冒頭部(原文より)
ある晩春の午後、私は村の街道に沿った土堤の上で日を浴びていた。空にはながらく動かないでいる巨きな雲があった。その雲はその地球に面した側に藤紫色をした陰翳を持っていた。そしてその尨大な容積やその藤紫色をした陰翳はなにかしら茫漠とした悲哀をその雲に感じさせた。
「蒼穹」梶井基次郎(青空文庫)
末尾部(原文より)
その記憶が私の心をかすめたとき、突然私は悟った。雲が湧き立っては消えてゆく空のなかにあったものは、見えない山のようなものでもなく、不思議な岬のようなものでもなく、なんという虚無! 白日の闇が満ち充ちているのだということを。私の眼は一時に視力を弱めたかのように、私は大きな不幸を感じた。濃い藍色に煙りあがったこの季節の空は、そのとき、見れば見るほどただ闇としか私には感覚できなかったのである。
「蒼穹」梶井基次郎(青空文庫)
原文を読む
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