万物の声と詩人(北村透谷)のあらすじ・登場人物
詩人は万物の声を聞く者
- 文字数
- 3,732字
- 読了目安
- 約7分
- 表記
- 新字旧仮名
この作品について
北村透谷の評論。1893年(明治26)10月、『評論』に発表。万物には自ずから声があり、その声を聞き取り、人間に語るのが詩人の使命だと説く。透谷の詩人観を知る短い文章。
あらすじ
冒頭は「万物自から声あり。万物自から声あれば自から又た楽調あり」。蚯蚓のように醜く拙い動物も、夜深く窓の外で断続の音を聞かせると、造化の妙機を悟らせる。自然は不調和のなかに調和を、悲哀のなかに欣悦を置く。運命と情慾は人を怯懦や我儘に追い立てる。そのなかで詩人は、牢獄にあっても、碧空を遠しとせず、天地を一つの美術として、その妙機を開いて人間に語る者だと結ぶ。
冒頭部(原文より)
万物自から声あり。万物自から声あれば自から又た楽調あり。蚯蚓は動物の中に於て醜にして且つ拙なるものなり。然れども夜深々窓に当りて断続の音を聆く時は、人をして造化の生物を理する妙機の驚ろくべきものあるを悟らしむ。自然は不調和の中に調和を置けり。悲哀の中に欣悦を置けり。欣悦の裡に悲哀を置けり。運命は人を脅かすなり、而して人を駆つて怯懦卑劣なる行為をなさしむるなり。情慾は人を誘ふなり、而して人を率ゐて我儘気随のものとなすなり。自然は広漠たる大海にして、人生は廷々たる浮島に似たり。風浪常時に四囲を襲ひ来りて、寧静なる事は甚だ稀なり。四節は追はずして駿馬の如くに奔馳し、草木の栄枯は輪なくして廻転する車の如し。自然は常変なり、須臾も停滞することあるなし。自然は常動なり、須臾も寂静あることなし。自然は常為なり、須臾も無為あることなし。その変、その動、その為、各自一個の定法の上に立てり、而して又た根本の法ありて之を支配するを見る。淵に臨みて静かに水流の動静を察するに、行きたるものは必らず反へる、反へれるものは必らず行く。若きもの必らず老ゆ、生あるもの必らず死す。苦あるものに楽あり、楽あるものに苦あり。造化は偏頗にして偏頗にあらず、私にして無私なり。差別の底に無差別あり。不平等の懐に平等あり。然り、造化の妙機は秘して其最奥にあるなり。人間の最奥なるところ、之を人間の空と言ひ、造化の最奥なるところ、之を造化の霊と言ふ。造化の最奥! 造化の霊! そこに大平等の理あるなり。そこに天地至妙の調和あるなり。人間はいかほどに卑しく拙なくありとも、天地至妙の調和は、之によりて毀損せらるゝことなきなり。あはれ、この至妙の調和より、万物皆な或一種の声を放ちつゝあるにあらずや。
「万物の声と詩人」北村透谷(青空文庫)
末尾部(原文より)
宗教完全にして美術も亦た完全ならんか、美術と宗教と相距ること数歩を出でざるなり。然れども宗教にしていつまでも乾燥なる神学的の論拠に立籠らんか、美術も亦た己がじゝなる方向に傾かんとするは、当然の勢なり。宗教の度と美術の度とは、殆ど一種の比例をなせり。一国民の美術は到底、その倫理の表象なり。野卑なる国民は卑野なる美術に甘んじ、高尚なる国民は高尚なる美術を求む、勇敢なる国民に勇武の物語出で、淫逸なる国民に淫逸なる史乗あり。畢竟するに、万物その自からなる声をなして、而して美術はその声を具躰にしたるものに過ぎざれば、形は如何にありとも、その声の主なる心にして卑野なれば、美術も卑野ならざらんと欲して得べからざるは至当の理なり。宇宙の中心に無絃の大琴あり、すべての詩人はその傍に来りて、己が代表する国民の為に、己が育成せられたる社会の為に、百種千態の音を成すものなり。ヒユーマニチーの各種の変状は之によりて発露せらる。真実にして容飾なき人生の説明者はこの絃琴の下にありて、明々地にその至情を吐く、その声の悲しき、その声の楽しき、一々深く人心の奥を貫ぬけり。詩人は己れの為に生くるにあらず、己が囲まれるミステリーの為めに生れたるなり、その声は己れの声にあらず、己れを囲める小天地の声なり、渠は誘惑にも人に先んじ、迷路にも人に後るゝなし、渠は無言にして常に語り、無為にして常に為せり、渠を囲める小天地は悲をも悦をも、彼を通じて発露せざることなし、渠は神聖なる蓄音器なり、万物自然の声、渠に蓄へられて、而して渠が為に世に啓示せらる。秋の虫はその悲を詩人に伝へ、空の鳥は其自由を詩人に告ぐ。牢獄も詩人は之を辞せず、碧空も詩人は之を遠しとせず、天地は一の美術なり、詩人なくんば誰れか能く斯の妙機を闡きて、之を人間に語らんか。 (明治二十六年十月)
「万物の声と詩人」北村透谷(青空文庫)
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