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処女の純潔を論ず(北村透谷)のあらすじ・登場人物

伏姫に見る処女の純潔

北村透谷 1892年(明治25年)10月 「女学雑誌」

文字数
5,232字
読了目安
約10分
表記
新字旧仮名

この作品について

北村透谷が1892年(明治25年)10月、「女学雑誌」に発表した評論。副題に「富山洞伏姫の一例の観察」とあるとおり、曲亭馬琴『南総里見八犬伝』の伏姫を取り上げ、処女の純潔を人の世の至宝とたたえる立場から論じる。日本の文学の祖先は処女の純潔を尊ぶことを知らなかったと嘆くところから説き起こし、馬琴を芭蕉と並べてその仏教の受けとめ方の違いを比べたうえで、八房との因縁、富山の洞での伏姫の姿を、原文を引きながら読み解いていく。漢文訓読調の文語に「シバルリイ」「ロマンチック・アイデアリスト」などの外来語を交えた文体で、高尚な恋愛は純潔に根ざすという透谷の恋愛観がうかがえる。

あらすじ

透谷はまず、天地に愛すべきものは多いが、最も愛すべきは処女の純潔であると述べ、人の言葉ではこの至宝を形容しつくせないと書く。ところが日本の文学は、徳川期の戯作者はもとより、古の歌人も厭世思想家も処女の純潔を尊ぶことを知らなかったと嘆き、高尚な恋愛は汚れのない純潔に源を置くもので、純潔のない恋愛は浪に浮かぶ肉愛にすぎないと説く。そのうえで、日本に大きな理想家はいないといわれるなか、ロマンチック・アイデアリストとしての馬琴の一端を、『八犬伝』の伏姫に見ようとする。芭蕉が仏道を実践したのに対し馬琴は観念したと両者を比べ、『八犬伝』は武士道と儒道の混ざり合いと、因果の理法という二本の柱の上に置かれていると論じる。伏姫の物語こそ全編の脳髄であるとして、八房の前世が玉梓であること、義のために八房に伴われて富山の洞に入りながら汚されなかった伏姫の姿を、原文を引いてたどる。最後に、伏姫は因果の運命に一身をささげた者であり、その始めから終わりまでの純潔の誠が八房をも成仏させたのだと結論づけ、浅学の身で大問題に踏み入ったことを恥じて筆をおく。

冒頭部(原文より)

天地愛好すべき者多し、而して尤も愛好すべきは処女の純潔なるかな。もし黄金、瑠璃、真珠を尊としとせば、処女の純潔は人界に於ける黄金、瑠璃、真珠なり。もし人生を汚濁穢染の土とせば、処女の純潔は燈明の暗牢に向ふが如しと言はむ、もし世路を荊棘の埋むところとせば、処女の純潔は無害無痍にして荊中に点ずる百合花とや言はむ、われ語を極めて我が愛好するものを嘉賞せんとすれども、人間の言語恐らくは此至宝を形容し尽くすこと能はざるべし。噫人生を厭悪するも厭悪せざるも、誰か処女の純潔に遭ふて欣楽せざるものあらむ。

「処女の純潔を論ず」北村透谷(青空文庫)

末尾部(原文より)

要するに伏姫は因果の運命にその生涯を献じたる者なり。因果は万人に纏ひて悲苦を与ふるものなるに、万人は其繩羅を脱すること能はずして、生死の巷に彷徨す、伏姫は自ら進んでこの大運命に一身を諾ねたるものなり。義は彼をこの大運命の囚獄に連れ行きたる囚吏なり、宿因は八房に代表せられて、彼を破滅に導きたるなり。破滅は又た幸福を里見の家に臨らせたるなり。凡て是等の錯綜せる哲理の外に、晃々としてこの大作を輝かすものこそあれ。そを何ぞと曰ふに、伏姫の純潔なり。始めより終りまでの純潔なり。その純潔の誠実は通じて非類の八房を成仏せしめしは、尊ふとしと言ふも愚ろかなり。  わが伏姫を論ぜんと企てしは、その純潔を観察するに止めんとせしなるに、図らずも馬琴の哲学に入りて因果論等をほのめかすに至りぬ。浅学の身にして文学上の大問題に蹈入りたるは深く自ら恥づるところ。読者もしこの心して読まざれば、或は我が精神に違はむことを恐る。

「処女の純潔を論ず」北村透谷(青空文庫)

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