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文章の音律(泉鏡花)のあらすじ・登場人物

文章は耳で読むもの

泉鏡花 1909年(明治42年)5月 「明治評論」

文字数
1,618字
読了目安
約3分
表記
旧字旧仮名

この作品について

1909年(明治42年)5月、「明治評論」に掲載された談話筆記。当時の小説の文章が目で読ませるだけのものになり、耳で聞く響き、つまり音律を軽んじていると指摘する。言文一致体の語尾の「だ」と「である」の使い分け、会話から話し手の年齢や性別が聞き取れるべきこと、俳句の例を挙げて音律が表現の力を生むことなどを、平易な話し言葉で述べる。底本では「談話」に分類されている。

あらすじ

近ごろの小説の文章は粗雑になり、とりわけ耳に聞かせる響き、つまり音律が軽んじられていると述べる。五七調のようなものを指すのではなく、言文一致体の語尾の「だ」は強すぎ、「である」の方が穏やかだが、前後の調和さえ保てば「なり」「けり」を使ってもよいと考える。会話は、眼を閉じて聞いても十七八の娘か老婆かが分かるように書くべきだと説く。「雨が降る」と書けば雨の音が聞こえなければならず、「悠然として」と書いても文の調子が駆け足では台なしになる。俳句の例を挙げ、音律があってこそ腕まくりした男が踊りの一団を崩して通る姿が表れると述べ、文字の意味が分からない者にも趣が伝わる文を書くべきだと結ぶ。

冒頭部(原文より)

近來の小説の文章は、餘程蕪雜になつたやうに考へられる、思想が大切であるのは言ふまでも無いが、粗笨な文章では思想が何んなに立派でも、讀者に通じはしまい、感じはしまいと思ふ。就中近頃の小説の文章に、音律といふことが忽にされて居る、何うして忽せ處ではない、頭から文章の音律などは注意もしてゐないやうに思ふ。

「文章の音律」泉鏡花(青空文庫)

末尾部(原文より)

それで音律を忽せにして、眼にのみ見せようとするのは、文章ではないと思ふ。女房が借金取が來て仕樣がないといふと、亭主が借金取が來ても、泰然自若たりだといふと假定する。處で、此女房が眼に一丁字の無いもので、泰然自若の意味が分らなくても、其言葉で如何にも泰然自若たる處が表れてゐなければいけない。是が音律を忽にすべからざる點だと思ふ。無學の者でも、文章を聞いて其趣を捉へることの出來るやうに書くのが、文である。其れは一にまた音律の如何に依るのであると思ふ。

「文章の音律」泉鏡花(青空文庫)

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