光の中に(金史良)のあらすじ・登場人物
南先生と呼ばれる青年
- 社会
- 心理
- 文字数
- 24,416字
- 読了目安
- 約49分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 東京都
この作品について
金史良が1939年(昭和14年)10月、保高徳蔵主宰の同人誌「文芸首都」に発表した短編で、第10回芥川賞の候補作となり、日本語で書く朝鮮人作家としての彼の名を広く知らせた。語り手は東京の工場街にある帝大生の隣保事業団体「S協会」で、勤労者に夜学の英語を教える朝鮮出身の青年。協会では本名の「南(ナム)」ではなく日本風に「南(みなみ)先生」と呼ばれている。子どもたちの輪に入れず、語り手につきまといながら意地悪をくり返す少年・山田春雄の不思議な振る舞いを入口に、呼び名ひとつに揺れる語り手自身の心の動きが一人称でつづられる。青空文庫の解説によれば、大学時代のセツルメント活動や警察に拘留された経験が下地になったと推察されている。
あらすじ
朝鮮出身の「私」は、東京の江東に近い工場街で帝大生が営むS協会に寄宿し、夜学で英語を教えている。協会では本名の「南(ナム)」を日本風に読んで「南(みなみ)先生」と呼ばれ、子どもたちに慕われていた。ただ一人、山田春雄という汚れた身なりの少年だけは仲間に入れず、私のまわりをうろついては邪魔をする。ある晩、運転助手の夜学生・李が、なぜ先生のような人まで名前を隠すのかと朝鮮語で詰め寄ると、それを立ち聞きした春雄は「先生は朝鮮人だぞう!」と触れ回り、以後いっそう意地悪くつきまとう。小さな女の子を「朝鮮人」と罵って打った春雄を、私は思わず殴りつけた。子どもたちのキャンプに行けなかった春雄を慰めようとした日、協会に頭から血を流した朝鮮人の女が担ぎ込まれる。李によれば、ごろつきの夫に刃物で切りつけられたのであり、その夫が春雄の父だった。春雄は「朝鮮人なんか僕の母じゃないよ」と泣き叫ぶ。嵐の夜、ずぶ濡れで協会に現れた春雄を自室に泊めた私は、その寝姿を見て、かつて留置場で隣り合わせた男「半兵衛」――母を朝鮮人に持ちながら朝鮮を嫌い、朝鮮料理屋から女を脅し取ったと語った男――の子であることにようやく気づく。翌朝、病院で春雄の母・貞順を見舞うと、彼女は夫への恩を口にし、春雄は内地人だと思っているのだから相手をしないでほしいと頼む。病院の階段の陰には、私の部屋から持ち出した刻み煙草を握りしめた春雄が隠れていた。煙草は母がいつも傷に貼っていたものだった。その午後、私は春雄を上野へ連れ出す。デパートの食堂でカレーライスを食べ、新しい下着を買い、一人前の運転手になった李の車にも乗せてもらう。将来は舞踊家になりたいと明るく語る春雄に、私は光の中で踊る彼の姿を思い描く。不忍池へ下りる石段で、春雄は「南先生でしょう?」と私の本当の名を呼び、うれしそうに駆け下りていった。
登場人物
- 私(南) 朝鮮出身の帝大生。S協会で夜学の英語を教え、「南(みなみ)先生」と呼ばれている
- 山田春雄 協会に入り浸る少年。仲間に入れず、私につきまとって意地悪をする
- 李 自動車の運転助手をしながら夜学に通う朝鮮人の青年。名を隠す私に憤る
- 貞順 春雄の母。朝鮮人で、夫の暴力に耐えている
- 半兵衛 春雄の父。ごろつきで、かつて私と同じ留置場にいた男
冒頭部(原文より)
一 私の語ろうとする山田春雄は実に不思議な子供であった。彼は他の子供たちの仲間にはいろうとはしないで、いつもその傍を臆病そうにうろつき廻っていた。始終いじめられているが、自分でも陰では女の子や小さな子供たちを邪魔してみる。又誰かが転んだりすれば待ち構えたようにやんやと騒ぎ立てた。彼は愛しようともしないし又愛されることもなかった。見るから薄髪の方で耳が大きく、目が心持ち白味がかって少々気味が悪い。そして彼はこの界隈のどの子供よりも、身装がよごれていて、もう秋も深いというのにまだ灰色のぼろぼろになった霜降りをつけていた。そのためかも知れないが、彼のまなざしは一層陰鬱で懐疑的に見える。だが妙なことに彼は自分の居所を決して教えようとはしなかった。私は大学からS協会への帰りみちなど、押上駅の前で二三回彼に遇ったことがある。彼の歩いて来る方向からすれば、どうやら彼は駅裏の沼地あたりに住んでいるようだった。それでいつか私はこう質ねたものである。
「光の中に」金史良(青空文庫)
末尾部(原文より)
「先生、僕は先生の名前を知っているよう」 「そうか」私はてれかくしに笑って見せた。「云ってごらん」 「南先生でしょう?」そう云ったかと思うと彼は私の手に自分の脇にかかえていた上服を投げ附けて、嬉々としながら石段をひとり駆け下りて行くのだった。 私もほっと救われたような軽い足取りで倒れそうになりながら、たたたっと彼の後を追うて下りて行った。
「光の中に」金史良(青空文庫)
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