ナリン殿下への回想(橘外男)のあらすじ・登場人物
印度の太子と文士の友情
- 心理
- 社会
- 文字数
- 61,727字
- 読了目安
- 約2時間3分
- 表記
- 新字新仮名
- 種別
- 小説
- 舞台
- 東京都
この作品について
作者自身を語り手に、日本で出会ったインドの王国の美しい太子との交友と悲しい別れを描いた実話風の物語。1938年(昭和13年)2月号の「文藝春秋」に発表され、同年上半期の第7回直木賞を受賞した。駿河台のインド商館で、語り手は頭布に宝石を着けた気品ある少年シュータンに出会う。のちに彼が、英国の駐在官を射殺した過去を持つヴィルプール国のナリン太子と知れてから、二人は映画館や帝国ホテルで友情を深めた。日中戦争下の日本を背景に、英帝国への反感と植民地の悲哀をにじませた作品である。
あらすじ
日中戦争のさなかの東京。インド商館ヴァローダ商会に出入りする語り手の橘は、頭布に宝石を着け、絵から抜け出したような美しい少年に出会う。名はシュータン、十九歳。語り手は少年を映画に誘うが、少年は劇場の料金の区分について政策のような見識を語り、自分で映画館を建てる計画まで口にして語り手を驚かせる。やがて帝国ホテルで、顔見知りの米国人から、少年が印度の名高い王子だと教えられる。少年は、三年前に姉の王女に無礼を働いた英国の駐在官を射殺したというヴィルプール国のナリン太子であった。語り手は身分を超えて友となり、太子が日本の紡織を学ぶために赤坂の邸を借りるとき、保証人を引き受ける。ところが貸主の信託会社の社員に侮辱され、語り手は日本人への失望と怒りをあらわにする。元横浜市長の大家の助けで契約はまとまるが、数日後、英国大使館が太子を抑えて留学地を米国へ変えさせようとする。太子を慕う英国人女性キャゼリンは、殺された駐在官の妹であった。語り手は大使館で太子に最後の面会をして、金時計を贈られる。太子は従者シャアとともに英国船イキトス号で横浜を発つが、船上で病に倒れ、シャアとともに亡くなったという知らせが届く。語り手は友人としてその死を悼み、決して忘れないと誓う。
登場人物
- 橘 語り手の日本人。商会の支配人で実話書き。太子の友人となる
- ナリン太子(シュータン) ヴィルプール国の太子。十九歳の英邁な美少年
- カパディア ヴァローダ商会の主人。太子の国の出身で、橘の友人
- ラジック・シャア 太子の従者。無口で忠義に厚い青年
- ハルヴァダン・ジャヴェリ 太子の従者。橘の文才を信じている
- キャゼリン・ジャルディン 太子が射殺した英国の駐在官の妹。太子を慕う
冒頭部(原文より)
一 昨年の八月中頃、ヒューゲッセン大使負傷事件を契機として我が国に対する英帝国の態度が、そろそろ敵意を帯びた奇怪なものに映り出していた頃であったと記憶している。何かの用件である日の夕方、ヴァローダ商会という印度商館へ訪ねて行ったことがある。電車通りに面した事務所には、相変らず所狭いまでに各種の器具機械類が並べられて、三人ばかりの日本商人が注文欲しげな顔で売り込みに控えていた。 「HALLO! HALLO!」とその中を分けて、カパディア氏は懐かしそうに私の手を握った。自分の机の側に椅子を勧めながらそこらにいる印度人たちに、「MR・タチバナ! K・三田谷商店の支配人で有名な作家!」と紹介してくれた。
「ナリン殿下への回想」橘外男(青空文庫)
末尾部(原文より)
「MR・タチバナどうぞこちらへ」と私の席を作ってくれた。その席に立ってそして黒リボンに飾られた壁上の太子を見上ぐれば、それは生ける日のごとく眼は美しく、唇は微笑んで「MR・タチバナ、あなたは私を覚えていて下さるか?」とあの英国大使館で別れる時に微笑まれた在りし日の俤そのままであった。聡明なる太子はすでにもはやあの時自己の運命の帰趨は充分に悟っていられたのではなかったろうか? 見上げている私の眼にも熱い熱いものがたぎり立ってきた。 「殿下、私も私の命ある限り決してあなたを忘れはいたしません」と私は心のうちで繰り返しつつ、いつまでも肖像を見上げて突っ立っていたのであった。 ……忘れもせぬ、それは昨年の十月二十九日陰険奸黠な英帝国の対支策謀の事実が次から次へと暴露してちょうどこの日赤坂三会堂における第三回の排英大会に我が日本国民の血潮が沸騰し切っていたその当日のことであった。
「ナリン殿下への回想」橘外男(青空文庫)
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