法句経(荻原雲来)のあらすじ・登場人物
怨みは怨みで息まず
- 翻訳
- 文字数
- 25,350字
- 読了目安
- 約51分
- 表記
- 旧字旧仮名
この作品について
初期仏教の教えを短い詩句に集めた経典『ダンマパダ』(法句経)を、仏教学者の荻原雲来がパーリ語の原典から日本語に訳したもの。二十六章、四百二十三の偈(詩句)からなり、怒り、怠り、欲、老い、死などをめぐって、どのように心を整えて生きるかを簡潔な言葉で説く。雲来は明治の末ごろ雑誌『宗教界』に「新訳法句経」として訳を発表し、二十数年後に改訂と注を加えて、1935年(昭和10年)に岩波文庫の一冊として刊行した。序では、英訳からの重訳ではなく原典のありのままを伝えるため、あえて文を飾らずに訳したと述べている。文語の直訳調の本文に、仏教語を説く短い注が添えられ、宗派を問わず広く読まれてきた経典の姿をよく伝える。
あらすじ
第一「双叙の部」は、すべては心を先とし心から成ると説き、汚れた心で語り行えば苦が、浄い心でなら楽がついてくることを、対になる句で示す。怨みは怨みによっては息まず、怨みを捨ててこそ息むという句もここにある。続く章では、怠らずに励むこと(不放逸)、揺れ動く心を制すること、花のように善い行いを積むこと、愚かな者と賢い者の違い、悟りに達した阿羅漢のありさまが説かれる。千の無益な言葉よりも心を静める一句がまさるとする「千の部」、悪をなさず暴力を用いないことを説く「悪行の部」「刀杖の部」、老いと死を見つめる「老耄の部」、自分こそ自分のよりどころだとする「己身の部」などが続き、仏陀、安楽、愛好、忿怒、塵垢、道、地獄、象、愛欲、比丘をめぐる章を経て、最後の「婆羅門の部」では、欲と執着を断って彼岸に渡った人こそ真の婆羅門だと繰り返して結ばれる。巻頭には、法句の語義と内容、成立、仏教の中での位置を述べた訳者の序がある。
冒頭部(原文より)
一 諸事意を以て先とし、意を主とし、意より成る、人若し穢れたる意を以て語り、又は働く時は其がために苦の彼に隨ふこと猶ほ車輪の此を牽くものに隨ふが如し。 二 諸事意を以て先とし、意を主とし、意より成る、人若し淨き意を以て語り、又は働く時は其がために樂の彼に隨ふこと影の(形を)離れざるが如し。 三 彼れ我を罵り、我を打ち、我を破り、我を掠めたりと堅く執する人の怒は息むことなし。 四 彼れ我を罵り、我を打ち、我を破り、我を掠めたりと堅く執せざる人の怒は止息に歸す。 五 世の中に怨は怨にて息むべきやう無し。無怨にて息む、此の法易はることなし。
「法句経」荻原雲来(青空文庫)
末尾部(原文より)
四一九 一切有情の死と又生とを知り、著なく、幸にして、覺悟せる人を我は婆羅門と謂ふ。 四二〇 心の穢なき阿羅漢の趣きし處は神も健闥婆も人も能く知らず、彼を我は婆羅門と謂ふ。 健闥婆―鬼神の一種。 四二一 初めにも後にも中にも少しの所有あらず、無所有無取なる彼を我は婆羅門と謂ふ。 四二二 最上勇猛なる牛(王)、大仙、己服者、無欲者、沐浴者、覺悟者を我は婆羅門と謂ふ。 四二三 人あり前世の生存を知り、又神と惡趣とを見、又生の盡を得、神通圓滿せる智者となり、一切圓滿せる圓滿を有する彼を我は婆羅門と謂ふ。
「法句経」荻原雲来(青空文庫)
名文
世の中に怨は怨にて息むべきやう無し。無怨にて息む、此の法易はることなし。
法句経第五偈。恨みは恨みによっては消えず、恨みを捨ててこそ消えるという、仏教の教えの中でも特に広く知られる一句。
戰場に於て千々の敵に克つよりも、一の己に克つ人こそ實に戰士中の最上と云ふべけれ。
第百三偈。戦場で千の敵に勝つより、ただひとつの自己に勝つ者こそ最上の勝者だという。自己を制することの尊さを説く名句。
諸の惡を作さず、善を奉行し、自心を淨む、是れ諸佛の教なり。
第百八十三偈。漢訳の「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」(七仏通誡偈)として知られ、仏教の要を一句にまとめたものとされる。
原文を読む
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